1961年の東映フライヤーズでは、1961年の東映フライヤーズの動向をまとめる。
1961年の東映フライヤーズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ2位 | |
83勝52敗5分 勝率.615[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都世田谷区 |
球場 | 駒澤野球場 |
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球団組織 | |
オーナー | 大川博 |
経営母体 | 東映 |
監督 | 水原茂 |
« 1960 1962 » |
この年の東映フライヤーズは、水原茂監督の1年目のシーズンである。
概要
Bクラスに転落した責任を取って岩本義行前監督が辞任すると、大川博オーナーはチーム再建のため、巨人を勇退した水原茂を新監督に招聘。1964年の東京五輪開催に伴い、東急電鉄沿線にあった駒沢野球場がこの年いっぱいで閉鎖になるため、駒沢の最終年を優勝で飾るべくチームは開幕から好スタート。西園寺昭夫、張本勲、吉田勝豊のクリーンナップトリオに加え、一塁手にコンバートされた山本八郎も好調の強力打線を背景に、順調に勝ち星を重ねていく。
前年優勝の大毎が開幕ダッシュに失敗したこともあって、終始南海と首位を争い、9月初めには勢いの落ちた南海に代わり首位に浮上するなど、一度は初優勝が目前に見えた。しかし、Bクラス常連のチームは優勝争いに慣れておらず、投手陣と内野陣の層の薄さから、大事な試合でエラーを連発するなど、誤算が続出した。
最終的にチームの4番・張本勲、キャプテン・毒島章一、エース土橋正幸や久保田治の奮闘もむなしく、全球団に勝ち越しながらも最後は駒沢球場での直接対決に敗れ、鶴岡一人監督の胴上げを見届けた。しかし、南海の底力に屈したとはいえ、最終的に83勝52敗5分で貯金31を稼ぎ、翌年の水原監督初の胴上げへと繋がっていく。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 | |||||||
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1位 | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 東映 | -- | 南海 | -- |
2位 | 西鉄 | 2.0 | 東映 | 4.5 | 東映 | 4.5 | 西鉄 | 4.0 | 西鉄 | 5.0 | 南海 | 1.0 | 東映 | 2.5 |
3位 | 東映 | 2.5 | 大毎 | 6.0 | 西鉄 | 5.0 | 東映 | 4.5 | 東映 | 6.0 | 西鉄 | 4.0 | 西鉄 | 5.5 |
4位 | 大毎 | 4.5 | 西鉄 | 7.5 | 大毎 | 7.0 | 大毎 | 8.0 | 大毎 | 11.5 | 大毎 | 12.5 | 大毎 | 15.0 |
5位 | 阪急 | 8.5 | 阪急 | 17.0 | 阪急 | 20.5 | 阪急 | 25.0 | 阪急 | 27.0 | 阪急 | 27.5 | 阪急 | 33.5 |
6位 | 近鉄 | 9.5 | 近鉄 | 19.0 | 近鉄 | 26.0 | 近鉄 | 33.5 | 近鉄 | 43.5 | 近鉄 | 47.0 | 近鉄 | 51.5 |
オールスターゲーム1961
詳細は「1961年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
できごと
選手・スタッフ
表彰選手
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
張本勲 | 外野手 | 2年連続2度目 |