1960年の南海ホークスでは、1960年の南海ホークスの動向をまとめる。
1960年の南海ホークス | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ2位 | |
78勝52敗6分 勝率.600[1] | |
本拠地 | |
都市 | 大阪府大阪市 |
球場 | 大阪球場 |
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球団組織 | |
経営母体 | 南海電気鉄道 |
監督 | 鶴岡一人 |
« 1959 1961 » |
この年の南海ホークスは、鶴岡一人監督の15年目のシーズンである。
概要
過去4度も日本シリーズで対戦しながらも敗れた巨人の壁をようやく崩したこの年、鶴岡監督は打線の大型化に着手。自身と同郷の広瀬叔功を1番打者に据え、岡本伊三美の故障で二塁に入った半田春夫を2番に据えるなど機動力も兼ね備えた野球で連覇を目指した。チームはこの年も開幕好調で、5月には大毎に3.5ゲーム差を付けて首位に立つなど順調だった。しかし、6月以降大毎が18連勝で南海に代わって首位に立つと次第にゲーム差が広がり、8月14日からBクラスの阪急、近鉄戦3タテを含めて9連敗。終盤追い上げたものの時すでに遅く、連覇はならなかった。投手陣は入団から2年間大車輪の活躍を見せたエース杉浦忠の負担を軽くするため、ジョー・スタンカが開幕前に入団。スタンカは大リーグでの経験がなく、鶴岡監督や蔭山和夫ヘッドコーチはじめ、評論家から「スタンカは活躍できるのか」と心配された。しかし、鶴岡監督らの不安を吹き飛ばすように開幕からローテに入り17勝、防御率2.48でチームに貢献し杉浦の負担軽減の役目を果たす活躍を見せた。打撃陣は4番の野村克也をはじめ広瀬、半田などの活躍でリーグ1位の103本塁打を記録したが、得点がリーグ3位の519点に終わった。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 大毎 | -- | 南海 | -- | 大毎 | -- | 大毎 | -- | 大毎 | -- | 大毎 | -- |
2位 | 南海 | 1.0 | 大毎 | 3.5 | 南海 | 2.0 | 南海 | 2.5 | 南海 | 5.0 | 南海 | 4.0 |
3位 | 東映 | 2.0 | 東映 | 6.5 | 西鉄 | 13.0 | 阪急 | 7.0 | 阪急 | 11.0 | 西鉄 | 12.0 |
4位 | 阪急 | 2.0 | 西鉄 | 8.0 | 阪急 | 14.0 | 西鉄 | 14.5 | 西鉄 | 12.5 | 阪急 | 17.0 |
5位 | 近鉄 | 3.5 | 阪急 | 8.0 | 東映 | 17.0 | 東映 | 26.0 | 東映 | 30.5 | 東映 | 30.0 |
6位 | 西鉄 | 3.5 | 近鉄 | 10.0 | 近鉄 | 20.0 | 近鉄 | 29.0 | 近鉄 | 34.0 | 近鉄 | 39.0 |
オールスターゲーム1960
詳細は「1960年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
- 取り消し線は出場辞退