1958年の近鉄パールスでは、1958年の近鉄パールスの動向をまとめる。
1958年の近鉄パールス | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ6位 | |
29勝97敗4分 勝率.230[1] | |
本拠地 | |
都市 | 大阪府大阪市 |
球場 | 藤井寺球場(デーゲーム) 日本生命球場(ナイター) |
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球団組織 | |
オーナー | 佐伯勇 |
経営母体 | 近畿日本鉄道 |
監督 | 加藤久幸 |
« 1957 1959 » |
この年の近鉄パールスは、加藤久幸監督の2年目(前年途中からの監督代行を含む)のシーズンである。翌シーズンより球団名を「近鉄バファロー」に改称したため、近鉄パールスとして最後のシーズンである。
概要
従来の縦縞スタイルはそのままに後にメインカラーとなる赤を採用するなど、新ユニフォーム導入で1955年以来のBクラス生活に終止符を打とうとしたが、逆にアダとなったのか、開幕から最下位を独走。それでも4月は5位の阪急と3.5ゲーム差で最下位脱出が期待されたが、チームの低迷は止まらず、大映ユニオンズから移籍してきた斎田忠利(後にパ・リーグ審判部長となる)をはじめ、主力選手が「まるでチンドン屋」「勝っているときはいいけど、負けているときはみっともない」と発言するなど悪評が続出。この時代では珍しかった赤色主体のユニフォームはチームのカンフル剤にならず、3年連続優勝の西鉄には50ゲーム近く、5位の東映にも27.5ゲーム以上も離され、加藤監督はわずか1年で辞任した。投手陣は西鉄から移籍してきた大津守が復活し、チームトップの10勝を挙げたが、22敗を喫し、リーグ最多敗戦投手となった。チーム防御率も4.04で、1952年以来6年ぶりの防御率4点台に終わっている。慢性的な長打力不足を機動力で補ってきた打撃陣もパッとせず、40本塁打、113盗塁はどちらもリーグ4位と不調。四番打者の小玉昭利が初の三割打者となったが、チーム打率.215はリーグ最低に終わった。あまりの不成績に業を煮やした佐伯勇オーナーは元巨人の千葉茂を新監督に招聘。ニックネームも「パールス」をやめて「バファロー」(千葉新監督の愛称・猛牛にちなむ)に変更し、心機一転を図ることになる。この年から大阪球場に代わり、日本生命保険が所有する日本生命球場がホーム・ナイター用の新本拠地となった(デーゲームに限り藤井寺球場も使用し、日生・藤井寺の併用は1983年まで続いた)。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 西鉄 | -- |
2位 | 西鉄 | 1.0 | 西鉄 | 3.5 | 阪急 | 5.5 | 阪急 | 6.5 | 阪急 | 3.0 | 南海 | 1.0 |
3位 | 東映 | 3.0 | 阪急 | 4.0 | 西鉄 | 6.5 | 西鉄 | 10.5 | 西鉄 | 3.0 | 阪急 | 4.5 |
4位 | 大毎 | 5.0 | 大毎 | 4.5 | 大毎 | 9.5 | 大毎 | 12.5 | 大毎 | 13.5 | 大毎 | 16.0 |
5位 | 阪急 | 7.5 | 東映 | 7.5 | 東映 | 12.5 | 東映 | 17.0 | 東映 | 14.0 | 東映 | 22.0 |
6位 | 近鉄 | 10.5 | 近鉄 | 19.5 | 近鉄 | 29.0 | 近鉄 | 37.5 | 近鉄 | 38.5 | 近鉄 | 49.5 |
オールスターゲーム1958
ファン投票 | 選出なし |
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監督推薦 | 小玉明利 |
できごと
この節の加筆が望まれています。 |
選手・スタッフ
表彰選手
リーグ・リーダー |
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受賞者なし |
ベストナイン |
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選出なし |