1953年の西鉄ライオンズでは、1953年の西鉄ライオンズの動向をまとめる。
1953年の西鉄ライオンズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ4位 | |
57勝61敗2分 勝率.483[1] | |
本拠地 | |
都市 | 福岡県福岡市 |
球場 | 平和台野球場 |
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球団組織 | |
経営母体 | 西日本鉄道 |
監督 | 三原脩 |
« 1952 1954 » |
この年の西鉄ライオンズは、三原脩監督の3年目のシーズンである。
概要
三原監督の2年間は2位、3位とまずまずの成績で3月は5勝2敗と勝ち越すも、4月と5月を8勝13敗と大きく負け越して借金が1ケタとなった。前半戦は借金街道まっしぐらでAクラスは無理と思われたが、9月に13勝8敗、10月に5勝2敗とそれぞれ勝ち越して何とかAクラス入りしたものの、借金4位の4位に終わった。チームは優勝の南海に11勝9敗1分と勝ち越したものの、最下位の近鉄に7勝12敗1分と負け越して借金返済はならなかった。投手陣は川崎徳次や野口正明、この年入団の西村貞朗や河村英文などの活躍で951被安打はリーグ1位と低めだったが、477失点はリーグ6位で防御率は3.05でリーグ5位だった。打撃陣は大下弘、中西太、ルーキー豊田泰光の活躍で114本塁打と3連覇の南海など他球団を突き放し打率も.253のリーグ3位と悪くなかったが、三振や失策も多く目立ち三振は587のリーグ1位、失策は161でリーグ6位と散々だった。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 毎日 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 大映 | -- | 大映 | -- | 南海 | -- |
2位 | 近鉄 | 1.0 | 大映 | 0.5 | 大映 | 南海 | 0.5 | 阪急 | 0.5 | 阪急 | 4.0 | |
3位 | 南海 | 2.0 | 近鉄 | 1.5 | 近鉄 | 1.0 | 阪急 | 2.0 | 南海 | 4.0 | 大映 | 6.5 |
4位 | 西鉄 | 4.0 | 毎日 | 3.0 | 毎日 | 1.5 | 近鉄 | 5.0 | 近鉄 | 7.0 | 西鉄 | 13.5 |
5位 | 阪急 | 4.0 | 阪急 | 5.0 | 阪急 | 4.0 | 毎日 | 7.5 | 毎日 | 8.0 | 毎日 | 14.5 |
6位 | 大映 | 4.5 | 西鉄 | 7.0 | 西鉄 | 6.5 | 西鉄 | 11.5 | 西鉄 | 12.5 | 東急 | 20.0 |
7位 | 東急 | 5.5 | 東急 | 7.5 | 東急 | 8.0 | 東急 | 12.0 | 東急 | 13.5 | 近鉄 | 22.0 |
オールスターゲーム1953
詳細は「1953年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照