1952年の東急フライヤーズでは、1952年の東急フライヤーズの動向をまとめる。
1952年の東急フライヤーズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ6位 | |
49勝59敗 勝率.454[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都文京区 |
球場 | 後楽園球場 |
球団組織 | |
オーナー | 大川博 |
経営母体 | 東急電鉄 |
監督 | 井野川利春 |
« 1951 1953 » |
この年の東急フライヤーズは1949年に監督を務め、その後2年間総監督を務めた井野川利春が監督に復帰した1年目のシーズンである。
概要
パ・リーグ誕生の1950年から2年間務めた安藤忍総監督に代わり、井野川利春監督がこの年復帰。井野川監督のもと、Aクラス入りが期待されたが開幕後に主力打者の大下弘が深見安博との交換で西鉄へ移籍。急遽、移籍入団の深見が開幕後は4番を打つことになった。チームは4月を首位の毎日から4ゲーム差の4位と、辛うじてAクラスを維持したものの6月以降は7球団中の6位に転落し、移籍1年目で本塁打王に輝いた深見の活躍以外明るい話題はなく最後は南海の2連覇を許して3年連続の6位(最下位ではない)に沈み、チーム防御率3.95はリーグ6位、チーム打率も.251でリーグ4位に終わった。しかし開幕から最下位を独走した近鉄には19ゲームを付け、井野川監督の復帰1年目はまずまずのスタートとなった。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 予選終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 毎日 | -- | 毎日 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- |
2位 | 大映 | 1.0 | 大映 | 3.0 | 大映 | 4.0 | 毎日 | 3.5 | 毎日 | 5.5 | 毎日 | 1.0 |
3位 | 南海 | 2.0 | 南海 | 4.0 | 毎日 | 4.5 | 西鉄 | 6.5 | 西鉄 | 9.0 | 西鉄 | 8.5 |
4位 | 東急 | 4.0 | 東急 | 6.5 | 西鉄 | 6.0 | 大映 | 8.0 | 大映 | 18.0 | 大映 | 21.0 |
5位 | 西鉄 | 5.0 | 阪急 | 8.5 | 阪急 | 9.0 | 阪急 | 8.5 | 阪急 | 21.0 | 予選敗退 | |
6位 | 阪急 | 6.5 | 西鉄 | 9.5 | 東急 | 12.5 | 東急 | 13.0 | 東急 | 21.5 | ||
7位 | 近鉄 | 9.5 | 近鉄 | 17.5 | 近鉄 | 23.5 | 近鉄 | 27.5 | 近鉄 | 40.5 |
- 各108試合の予選リーグ後、上位4チームでの決勝リーグ(4試合ずつの総当り)を行い、最終順位を決定
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
優勝 | 南海ホークス | 76 | 44 | 1 | .633 | --- |
2位 | 毎日オリオンズ | 75 | 45 | 0 | .625 | 1.0 |
3位 | 西鉄ライオンズ | 67 | 52 | 1 | .563 | 8.5 |
4位 | 大映スターズ | 55 | 65 | 1 | .4583 | 21.0 |
5位 | 阪急ブレーブス | 49 | 58 | 1 | .4579 | 20.5 |
6位 | 東急フライヤーズ | 49 | 59 | 0 | .454 | 21.0 |
7位 | 近鉄パールス | 30 | 78 | 0 | .278 | 40.0 |
*1-4位は予選リーグ(108試合)と決勝リーグ(12試合)の通算勝率、5位以下は予選リーグの勝率順で決定 [1]
オールスターゲーム1952
詳細は「1952年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
ファン投票 | 選出なし |
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監督推薦 | 選出なし |
できごと
この節の加筆が望まれています。 |
選手・スタッフ
表彰選手
ベストナイン |
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選出なし |