1947年の東急フライヤーズでは、1947年シーズンの東急フライヤーズの動向をまとめる。
1947年の東急フライヤーズ | |
---|---|
成績 | |
レギュラーシーズン6位 51勝65敗3分 勝率.440[1] | |
本拠地 | |
地域 | 関東 |
球場 | フランチャイズ制導入前 |
球団組織 | |
オーナー | 大川博 |
経営母体 | 東急電鉄 |
監督 | 苅田久徳(選手兼任) |
« 1946 1948 » |
この年の東急フライヤーズは、東急電鉄が球団を買収しチーム名が「東急フライヤーズ」に改称されたシーズンであり、苅田久徳選手兼任監督の1年目のシーズンである。
概要
1945年11月に東京セネタースの関係者によって創設されたセネタースは巨人や阪神などと違って特定の親会社を持たず、明治の元老・西園寺公望の孫であり、旧華族の西園寺公一がオーナーとなった。チームは8球団中最下位と予想されたが、何とか1946年の球団1年目を5位で終えた。華族制度が日本国憲法の施行で廃止となるため、セネタースは球団経営のピンチに立たされた。そこで西園寺の縁戚で、日立製作所創設者で立憲政友会の総裁も務めた久原房之助の娘婿である五島昇の実父・五島慶太が率いる東急グループがセネタースを買収。しかし五島慶太は鉄道会社の統廃合に関与し、また戦争に協力したとして公職追放となっていた(1944年、東急電鉄は現在の小田急電鉄・京王電鉄・京浜急行電鉄を合併し、また相模鉄道や後に小田急の子会社になる江ノ島電鉄の経営を受託しており、南海鉄道と合併した近畿日本鉄道同様に巨大化していた)。そのため、五島の側近である大川博東急専務が球団オーナーに就任。チームはニックネームをフライヤーズに変更するが(東急電鉄にちなむ)、東急電鉄の資本参加に反発する一部の選手が退団するなどチーム内が混乱。その影響もありチームはAクラス入りを予想されながらも阪神の戦後初優勝を許し、順位を1つ落として6位となった。シーズン終了後大映の経営参加に伴い球団の名称を「急映フライヤーズ」に改称したため、「東急フライヤーズ」の名称は一時姿を消すことになった。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1位 | 大阪 | -- | 大阪 | -- | 大阪 | -- | 大阪 | -- | 大阪 | -- | 大阪 | -- |
2位 | 中日 | 0.5 | 中日 | 1.5 | 中日 | 6.0 | 中日 | 5.5 | 中日 | 8.5 | 中日 | 12.5 |
3位 | 南海 | 2.5 | 南海 | 7.0 | 南海 | 10.0 | 南海 | 10.5 | 南海 | 11.0 | 南海 | 19.0 |
4位 | 金星 | 7.5 | 阪急 | 10.0 | 巨人 | 13.0 | 阪急 | 14.5 | 阪急 | 12.5 | 阪急 | 20.5 |
5位 | 阪急 | 8.0 | 巨人 | 阪急 | 14.5 | 巨人 | 15.0 | 巨人 | 16.5 | 巨人 | 22.5 | |
6位 | 太陽 | 8.0 | 金星 | 12.5 | 東急 | 18.0 | 太陽 | 17.5 | 太陽 | 21.5 | 東急 | 28.0 |
7位 | 東急 | 8.5 | 太陽 | 13.0 | 太陽 | 18.5 | 東急 | 22.0 | 東急 | 24.5 | 太陽 | 28.0 |
8位 | 巨人 | 9.0 | 東急 | 14.0 | 金星 | 20.0 | 金星 | 23.0 | 金星 | 25.5 | 金星 | 37.5 |
できごと
選手・スタッフ
表彰選手
ベストナイン | ||
---|---|---|
選手名 | ポジション | 回数 |
大下弘 | 外野手 | 初受賞 |