概要
享禄3年(1530年)6月[1]、模外惟俊を開山として松平清康が創建した。通称「是之字寺(ぜのじでら)」。清康が20歳の時、左手に「是の字」を握る夢を見、これを模外和尚に占わせたところ「これは吉兆、『是の字』を握るは天下をとることなり」と答えたという逸話がある(「是」を分解すると「日下人」と読める)。喜んだ清康は模外のために本寺を建立したと言われている[2][3]。
天正18年(1590年)に徳川家康が関東に移封されると、本国の留守居を任されていた酒井重忠は武蔵川越に1万石の所領を与えられた。新たに三河国岡崎城主となった田中吉政によって破却されたが、慶長6年(1601年)に本多康重が城主となると再建された。慶長8年(1603年)9月11日付で家康から朱印状を拝領する[4]。
1945年(昭和20年)7月19日から20日にかけての岡崎空襲により焼失した。
1970年(昭和45年)5月、RIA建築綜合研究所(現在のアール・アイ・エー)の山口文象の設計により、鉄筋コンクリート構造の本堂、社務所の建築工事が着工。工費は約7,000万円。翌1971年(昭和46年)に全天光照明の三角屋根の本堂が完成した[5]。
ギャラリー
明治末~大正期の本堂
本堂付近に遊具が設置されるが、寺は岡崎空襲により焼失した。
境内
札所
- 三河三十三観音霊場 第7番
交通手段
脚注
参考文献
- 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、413頁。
- 『岡崎 史跡と文化財めぐり』岡崎市役所、2003年1月1日。