生涯
劉表配下の大将。江夏太守であるが、任命時期は記録がない。建安4年(199年)当時、息子の黄射は章陵太守の地位にあった。父子で同時期に荊州内2郡の太守を務めていたことになり、劉表の軍閥において黄祖が高い地位にあったと推測される。
191年、袁術の命令で荊州に侵攻してきた孫堅を迎撃し、部下の呂公が孫堅を射殺した(襄陽の戦い)。
息子が連れてきた禰衡を最初は厚遇していたが、後に禰衡が傲慢になって黄祖を馬鹿にするようになったため、黄祖は怒って彼を殺害した。
199年、孫策と交戦した劉勲の救援要請に応じ、黄射に水軍五千を与えて派遣したが、劉勲が兵を捨てて曹操に帰順したので黄射は帰還した。劉勲の兵を吸収した孫策が夏口に進軍すると、劉表は劉虎・韓晞ら五千を援軍に派遣したが、周瑜らの攻撃の前に大敗し黄祖は身一つで逃亡した。
203年、孫権に敗北して撤退した際、食客の甘寧が凌操を射殺した。しかし黄祖は甘寧を軽視しており、都督蘇飛の計らいによって甘寧は孫権の下に亡命した。
また、孫氏とのある戦いで徐琨を戦死させている。
208年、再び孫権が来襲し、先鋒凌統の猛攻によって江夏城は陥落した。黄祖配下の水軍都督陳就も呂蒙に斬首され、陳就の死を知った黄祖は身一つで逃亡したが、孫権配下の騎兵である馮則に討ち取られた。
小説『三国志演義』では元部下の甘寧に斬られた。
親族
- 黄射 - 息子
所属配下
- 演義のみ