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鹿政談

鹿政談』(しかせいだん)は古典落語の演目の一つ。元々は講釈種の上方落語の演目で、明治の初期に柳家禽語楼が東京に移植した。令和初頭以降、6代目神田伯山によって講談への逆輸入が試みられている[1]

主な演者として、東京の6代目三遊亭圓生6代目春風亭柳橋、上方の3代目桂米朝などがいる。

あらすじ

鹿はかつてより奈良の名物であったが、かつては鹿が『神獣』とされていた事もあって、現在からみると想像を絶するほどの手厚い保護が行われていた。ちょっと叩いただけでも罰金、もし間違って殺そうものなら、男なら死罪、女子供なら石子詰めという、当時の最高刑が待っていたという時代背景のもとに創作された物語である。

奈良三条横町というところに、豆腐屋渡世を営む老夫婦が住んでいた。主である与兵衛が朝早くから起きだして表に出てみると、大きな赤が「キラズ」(卯の花の事)の桶に首を突っ込み食べていた。与兵衛が追い払おうとしたが動かず、手近にあった薪を投げ付けると、命中し赤犬は倒れてしまう。ところが、倒れたのは犬ではなく鹿だった。介抱の甲斐も無く鹿は死亡。正直者の与兵衛は鹿の死骸を隠すこともできず、事件はすぐ明るみに出た。

当時、鹿を担当していたのは目代(代官)の塚原出雲と、興福寺の番僧・了全の二人。この二人が連名で願書を書き、与兵衛はお裁きを受ける身になる。この裁きを担当することになったのは、名奉行との誉れが高い根岸肥前守。お奉行様とて、この哀れな老人を処刑したいわけではない。何とか助けようと思い、与兵衛にいろいろとたずねてみるが、嘘をつくことの嫌いな与兵衛はすべての質問に正直に答えてしまう。困った奉行は、部下に鹿の遺骸を持ってくるように命じた。

遺骸を見て肥前守は、「これは鹿ではない、犬だ。鹿には角がなくてはならない。しかし、これには角が無いではないか。犬ならば裁きの必要はない、この願書は差し戻しといたす」と裁いた。町役人ら一同は感心して「これは犬でございます」。中には、「今、ワンと鳴きました」と同意する人も出てくるが、鹿の守役の塚原が「鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします」と異議を唱える。肥前守はまたしばらく考え、「そこまで申すのなら、鹿の前に別の事を調べねばならぬ」と言い出した。この頃、鹿の餌料を着服して高利貸しに流用し、返済を厳しく取り立てる不届き者がいるという。毎年幕府から下されている鹿の餌料は三千両で、鹿の腹が満たないわけがない。『神獣』とはいえやはり動物であり、空腹に耐えかねて町中にさまよい出てしまったと肥前守は推察。鹿がキラズを盗み食ったのは神意に沿わず、打ち殺してもやむを得ないとした。「もし、この裁きを続けたいのであれば、今度は鹿の餌料を横領した者の裁きを始めねばならぬ」と再度、死骸が犬か鹿かの確認を塚原に迫る。身に覚えがあった塚原は、たまらず「犬鹿蝶!!」「わたくし、歳のせいか犬と鹿を取り違えてしまったようで…」「角が落ちたような跡は、腫物が並んでできたもの」と手のひらを返した。これによって一件は落着。その後、放免となって涙を流す与兵衛に肥前守が声をかけて話が終わる。「与兵衛、斬らず(キラズ)にやるぞ」「達者(マメ、豆)[2]で帰れます」。

鑑賞

元となった講釈では別の人物が行っていたお裁きを、落語に移植する際に根岸鎮衛の逸話に置き換えた。実在の根岸は「耳袋」の作者としても有名な才人であった。なお、実際に根岸が奈良奉行を務めたことはない。

与兵衛が鹿を殺した理由を尋ねられ、語っているうちに芝居がかりに(「仮名手本忠臣蔵」の六段目)になってしまうなど、人情の中にも笑える要素の多い作品であるが、裁きの場面に特に多く配されている。自分の職務に傷をつけまいとして、与兵衛を処刑しようと躍起になっていた塚原が、あべこべに横領罪で告発されそうになった揚句、自分の言った台詞をそっくりそのまま使われてやり込められる場面などがそれに当たる。

ちなみに、塚原が思わず叫んでしまう「犬鹿蝶」は花札に由来するギャグであり、六代目円生が挿入した。

最後の会話「斬らずにやるぞ」は、鹿が盗み食いしていた「キラズ」に、また「マメで帰れます」は「無事に」の意で、それぞれ豆腐屋が大豆を扱っていることに引っかけたオチである。

当時の社会状況

当時の奈良地方一帯は興福寺が大和守護として実質的な支配権を保ち続けており、奉行所は宗教警察権に対して不可侵の姿勢をとっていた為、鹿殺しを行った者は全て寺側に引き渡していた。興福寺側は罪人の年齢を問わずに引き回しの上、斬首するという私刑を公然と行っていた。

『興福寺略年代記』によれば1551年10月2日に10歳位の童女が鹿に石を投げて当たり所が悪く、打ち殺した為、引き回しの上斬首された事実が記載されており、「三作石子詰め」等の民話のように陰惨な話が今日まで伝わっている。

1670年に溝口信勝が奈良奉行に就任して以後は興福寺側の宗教的特権を認めなくなり、1678年に長四郎という鹿殺しの犯人に対する興福寺の処刑請願を奉行所が拒否して興福寺の支配は終わりを告げ、以後は鹿殺しについても幕府側が裁くようになる[3]。根岸鎮衛が生まれた1737年以降もこの状況に変わりはなく、1822年に食肉売買目的の常習犯が3名捕われたが長期の入牢だけで処刑はされていない。

このため、根岸がいた時代に過失犯でも奉行所が処刑したという設定は、本作における創作である。

奉行の名前

奈良奉行を根岸とするのは6代目三遊亭圓生の口演での設定であるが、演者によっては別の名前が使用される[4]。上方での古い時代には「松野河内守」、(3代目林家染丸)は「松本肥後守」[4]。3代目桂米朝は当初「曲渕甲斐守」だったが、後に実際に奈良奉行を務めた川路聖謨に変更した[4]。講談に逆輸入した6代目神田伯山の口演(木ノ下裕一による脚色)も川路を奉行としている。川路は奉行在職中の日誌に、過失で鹿を死なせても罰すべしという風説がいまだにあるのは困ったものだといった記述を残している[4]

各地の名物一覧

噺の枕として、落語に登場することの多い江戸京都、そして物語の舞台となる奈良の名物を紹介することが多い。

江戸

武士カツオ大名小路に生イワシ。茶屋紫に火消し錦絵火事喧嘩伊勢屋稲荷に犬のフン。

京都

壬生菜染物。お豆腐人形焼物

奈良

大仏に、鹿の巻き筆、奈良ざらし、春日灯篭、町の早起き。最後の早起きについては、もし住居などの軒先にシカが死んでいると罰を受けるおそれがあるので、わざわざ早起きをして確認する必要があったと説明される。桂米朝は大仏に、鹿の巻筆、あられ酒、春日灯籠、街の早起きと演じている。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 6代目神田伯山. “【講談】神田伯山「鹿政談」in 新宿末廣亭(2021年12月19日口演)”. YouTube. 神田伯山ティービー. 2022年5月31日閲覧。
  2. ^ 御節料理の「黒豆」の由緒を参照。
  3. ^ 大石慎三郎(監修)、石川松太郎加藤秀俊(編)『江戸時代人づくり風土記 ―ふるさとの人と知恵 <29>奈良県』農山漁村文化協会、1998年、p.45-46、245-246
  4. ^ a b c d 小佐田定雄『米朝らくごの舞台裏』筑摩書房<ちくま新書>、2015年、pp.127 - 128
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