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経歴
文禄5年(1596年)2月28日、正五位下叙位、元服、禁色雑袍昇殿。同年3月1日、右近衛権少将に叙任。同年3月8日、従四位下。慶長2年(1597年)12月29日、右近衛権中将に叙任。慶長6年(1601年)正月6日、正四位下。同年3月19日、播磨権守。慶長7年(1602年)正月6日、従三位。慶長11年(1606年)正月11日、権中納言。慶長12年(1607年)12月30日、正三位。慶長13年(1608年)正月7日、権大納言。慶長14年(1609年)、左近衛大将を兼任。慶長16年(1611年)2月9日、従二位。同年3月12日内大臣。慶長17年(1612年)正月17日、左近衛大将を辞任。同年2月2日、正二位。3月18日右大臣となり、7月25日、関白の詔を受け、同日、氏長者・内覧(兵杖牛車随身一座)宣下。慶長19年(1614年)正月5日、従一位。元和元年(1615年)7月27日、関白を辞退。九条忠栄の左大臣辞退に伴い左大臣となる。元和6年(1620年)正月13日、左大臣辞退。元和7年(1621年)11月19日 薨去(頓死)。または長年の煩いで癩病であったとの説もある。32歳。
参考文献
系譜
脚注
関連項目
- (方広寺鐘銘事件)(橋本政宣は『近世公家社会の研究』(pp551-555.)の中で、信尚が方広寺の大仏開眼式典に出ようとしていたことを知った徳川家康に忌まれて、謹慎に追い込まれて辞表を提出したとする説を提示している)