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鳴尾競馬場(なるおけいばじょう、英語:Naruo Racecourse)は、兵庫県西宮市南部(当時は武庫郡鳴尾村)にあった競馬場。1907年(明治40年)に竣工[1]した、関西初の競馬場であった。阪神競馬場で行われている重賞競走の「鳴尾記念」は、この鳴尾競馬場にちなんでいる。
歴史
創建当初は関西競馬倶楽部による開催で名称は「鳴尾西浜競馬場」であった。一方、同時期には鳴尾川を挟んで鳴尾速歩競馬会による「鳴尾速歩競馬場」もあったが、1910年(明治43年)5月16日に馬政長官から鳴尾速歩競馬会を関西競馬倶楽部に合同するよう命令を受けたのに伴い、両倶楽部は統合し「阪神競馬倶楽部」と改称。鳴尾速歩競馬場は廃止され、鳴尾西浜競馬場は鳴尾競馬場に改称された。[要出典]
1937年(昭和12年)には阪神競馬倶楽部が日本競馬会に統合され、「鳴尾競馬場」から「阪神競馬場」へと名称を変更した。
戦争の拡大に伴い、競馬場は1943年(昭和18年)4月の春季競馬を最後に海軍基地として接収[2]され、阪神間防衛の最前線となる飛行場(鳴尾飛行場)として利用された。飛行場となった後も大スタンドの本館は残されたが、白かった外観は黒く塗り替えられ迷彩が施され、管制塔として使用されていた[2]。
このため日本競馬会は代替地を探すことになり、一度は武庫郡良元村(現・宝塚市)逆瀬川の宝塚ゴルフ倶楽部近辺に決まって用地の接収も行われた。
終戦後、鳴尾飛行場はアメリカ軍が接収し1952年(昭和27年)までキャンプ基地として使用[2]した。一方、競馬場の代替地に決まっていた宝塚ゴルフ倶楽部は、GHQが慰安用ゴルフコースとして使うことになり復元された。これにより競馬会は再び代替地を探す必要に迫られた。ここで同じ良元村の仁川にあった川西航空機宝塚工場跡地に白羽の矢が立てられ、1949年(昭和24年)、新たな競馬場が完成。現在の阪神競馬場である。
1960年(昭和35年)に敷地の一部が武庫川女子大学へ払い下げられ[2]、1962年(昭和37年)に薬学部が、1963年(昭和38年)には武庫川女子大学附属中学校・高等学校が当地へ移転した[2]。このほか、周辺は浜甲子園団地や西宮市立西宮東高等学校としても再開発された。
残されていた大スタンドの正面玄関部分は武庫川女子大学附属中学校・高等学校の北特別教室として利用されていた[2]が、2004年(平成16年)に文化財として保護されることが決定、建設当時に忠実な復元が行われ、「芸術館」と名付けられた[2][3]。馬主休憩室として使用されていた部屋は、PTAの会議室として使用されている。
脚註
関連項目
- 鳴尾球場(当競馬場の馬場内を球場として整備し、全国中等学校優勝野球大会を開催した)
外部リンク
- 丹波篠山インターネットテレビ - アーカイブスに1936年(昭和11年)当時の映像がある。
- 「阪神競馬風景」(1936年/4分26秒)