鳥取県立中央病院(とっとりけんりつちゅうおうびょういん)は、鳥取県鳥取市にあり、鳥取県病院局が運営する病院である。鳥取県東部の中核的な医療機関であり、地域医療の中心的役割を果たしている。鳥取県災害拠点病院(基幹災害医療センター)に指定されている。鳥取県東部のみならず、兵庫県北部からの患者も多い。
鳥取県立中央病院 | |
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情報 | |
英語名称 | Tottori Prefectural Central Hospital |
標榜診療科 | 内科、神経内科、心臓内科、外科、呼吸器外科、心臓血管外科、脳神経外科、小児外科、整形外科、形成外科、精神科、小児科、皮膚科、泌尿器科、産婦人科、眼科、耳鼻いんこう科、リハビリテーション科、放射線科、病理診断科、臨床検査科、救急科、歯科口腔外科、麻酔科 |
許可病床数 | 518床 一般病床:504床 感染症病床:4床 結核病床:10床 |
機能評価 | 一般200床以上500床未満:Ver6.0 |
開設者 | 鳥取県 |
管理者 | 廣岡保明(院長) |
地方公営企業法 | 全部適用 |
開設年月日 | 1949年2月1日 |
所在地 | 〒680-0901 |
位置 | 北緯35度31分19秒 東経134度12分43秒 / 北緯35.52194度 東経134.21194度 |
二次医療圏 | 東部 |
PJ 医療機関 |
沿革
- 1891年(明治24年) - 倉吉市広瀬町の医師、(伊藤健蔵)が日本一の医師伊藤隼三(いとうはやぞう)のために県内一の近代病院を鳥取市本町一丁目に建立し、私立因幡病院(後に伊藤病院)として創設し、運営する[1]。
- 1931年(昭和6年)6月 - 伊藤隼三の長男、伊藤病院三代目医院長の伊藤肇より病院のすべてを鳥取市へ寄贈され、鳥取市立鳥取病院として発足[1]。
- この間、日本医療団が医療機関の整備統合を企図し、日本医療団鳥取県立中央病院となる[1]。
- 1949年(昭和24年)2月1日 - 日本医療団鳥取県立中央病院から鳥取県に移管し、鳥取市本町一丁目に鳥取県立中央病院として発足[2]。
- 1952年(昭和27年)4月17日 - 鳥取大火により焼失し、鳥取市吉方温泉三丁目に移転新築[2]。
- 1956年(昭和31年)7月 - 鳥取県と鳥取市は多大な貢献をした伊藤健蔵・伊藤隼三・伊藤肇の伊藤家三代の顕彰として、伊藤本家の跡取であり医師で彫刻家でもある伊藤宝城(伊藤博)作の「鬼手天心」像を鳥取県立中央病院玄関に建立(現在も玄関ホールに建てられている)[1]。
- 1975年(昭和50年)5月22日 - 鳥取市江津730番地(現在地)に移転新築[2]。
- 1980年(昭和55年)3月12日 - 臨床研修病院の指定を受ける。
- 1995年(平成7年)4月1日 - 地方公営企業法全部適用。
- 1999年(平成11年)5月20日 - 災害拠点病院(基幹災害医療センター)の指定を受ける。
- 2018年(平成30年)12月16日 - 新病院開院。鳥取県で最も高い建築物(高さ55.5m)になる[3]。
診療科目
一般施設
交通アクセス
バス停留所
不祥事・医療ミス・医療事故
- 2017年8月11日 - 女性看護師(20代)が、女性入院患者(90代)対し、同部屋に入院している別の患者の内服薬を誤って渡した。本来は患者本人に名乗ってもらい、薬の袋に書かれた氏名と確認するというマニュアルの手順を守っていなかった。約15分後に別の患者に薬を投与しようとして誤りに気づいた。女性患者は同年7月、骨折後の食欲不振で入院。誤って服用した薬には血圧を低下させる薬が本来より余分に含まれており、最高血圧は70台まで低下した。正常な血圧に回復するまでの1週間、寝たきりの状態が続いたという。患者家族は、この間運動ができず、筋肉が衰えるなど全身の運動機能が低下したと主張。県はこの主張を認め、入院費を含む損害賠償金約300万円を支払うことで裁判外での和解協議がまとまった[4]。
関連項目
外部リンク
- 鳥取県立中央病院