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後主 (北斉)

後主(こうしゅ)こと高 緯(こう い)は、北朝北斉の第5代皇帝武成帝高湛の嫡出長男で[1]、母は胡皇后

後主 高緯
北斉
第5代皇帝
王朝 北斉
在位期間 天統元年4月24日 - 承光元年1月1日
565年6月8日 - 577年2月4日
姓・諱 高緯
仁綱
生年 天保7年5月5日
556年5月29日
没年 建徳6年10月3日
577年11月30日
武成帝
胡皇后
后妃 斛律皇后
胡皇后
穆皇后
年号 天統 : 565年 - 569年
武平 : 570年 - 576年
隆化 : 576年

生涯

河清4年(565年)、父帝から皇位を譲られて即位する。天統4年(568年)には武成帝の死によって親政を開始する。(文林館)を創設する[2]ものの暗愚であり、和士開高阿那肱穆提婆といった奸臣たちを信任して国力を大きく衰退させた。重臣・王族たちが彼らの讒言によって殺され、特に斛律光を粛清して、蘭陵王高長恭を自殺に追い込んでからは軍事力が衰退し、それまで軍事的に圧倒的な有利さを保持していたにさえ国土を侵食される羽目になる。

その有様を見た北周武帝宇文邕は出兵を決意する。武平6年(575年)に北周軍の侵攻が始まると瞬く間に国土は侵食され、副都であった晋陽も陥落寸前となり、後主は晋陽の防衛を安徳王高延宗に押し付けて逃亡する。やむなく、高延宗は配下の軍から推戴されて皇帝となり、晋陽の防衛に奮闘するが力及ばず敗北し、北周に捕縛される。一方、後主は承光元年(577年)長男の高恒(幼主)に皇帝位を押し付け、なおも国内を逃げ回るものの、結局は部下に裏切られて孤立する。同年3月、後主は青州で幼主高恒ともども北周軍に囚われ、ここに北斉は滅亡した。

その後、北周から温公に封ぜられるものの、建徳6年(577年)に元側近の穆提婆と共謀して反乱を企てたとして、一族もろとも殺害された。享年22。

逸話

  • 自ら琵琶を弾いて「無愁の曲」を作った。近侍が一斉に和したので民間からは「無愁天子」と呼ばれた[3]
  • 異母兄弟の高綽に「任地にいた時、何が楽しかった?」と聞くと「をたくさん入れた穴の中に人を入れてもがき苦しむ様を見るのが楽しかった」と言ったので、同じようなことをさせると、高綽を叱りつけた。「なぜ、このように面白いことを隠しておったのだ」と[3]
  • 陥とされた平陽を奪還しに行った時、あと一押しで落とせるところまでいったが、(馮淑妃)と共に落城する様を見物しようと攻撃を止めさせた。馮淑妃の化粧に時間を取られたので、結局は落とすことができなかった[3]
  • 陳に侵略された時はさすがに顔色は失ったものの、臣下に「まだ淮河以南を失われたにすぎません。黄河以南を失われたとしても我が国には亀茲くらいの国力があります。一生遊び暮らすには充分ではありませんか」といわれて、そのまま納得してしまった[3]

宗室

后妃

  • 正室:斛律皇后(廃位)、胡皇后(廃位)、皇后穆黄花、左皇后(淑妃)馮小憐
  • 側室:左娥英李氏(李祖娥の弟の李祖欽の娘)、右娥英裴氏、昭儀曹氏、曹氏、昭儀董氏((董賢義)の娘)、夫人毛氏((毛思安)の妹)、夫人彭氏、夫人王氏、夫人王氏(小王夫人)、夫人李氏(隷戸女)、夫人李氏((李孝貞)の娘)

  • 幼主高恒
  • 東平王高恪
  • 高善徳
  • 高買徳
  • 高質銭

末裔

新撰姓氏録』諸蕃摂津国条には「温義 北斉国温公高緯之後」とあり、摂津国の温義氏が後主の末裔を称していたとされる。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 異母兄弟の高綽と同日に生まれたが、高綽は生母が側室だったため次男の扱いとなった。
  2. ^ “尾崎康「北斉の文林館と修文殿御覧」”. 2021年3月17日閲覧。
  3. ^ a b c d 『(通鑑記事本末)』(渡辺省のホームページより)

関連項目

先代
武成帝
北斉の第5代皇帝
565年 - 576年
次代
幼主
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