高城 胤忠(たかぎ たねただ、? - 天文15年(1546年)4月25日)は、戦国時代の武将。高城胤吉の父といわれていて、下野守、治部少輔[注 1]。高城越前守の次男か[1]。
生涯
胤忠は、あまり資料に出てこないため、どのような人生を送ったのかについても不明な点が多い。
『快元僧都記』によると、永正14年(1517年)、後の小弓公方・足利義明が小弓城の(小弓原氏)を攻めて陥落させると、その家臣であった高城氏の「越前守父子」が死亡、「同下野守」が逐電したという[2][3][4]。この下野守は胤忠のこととされており、この後西下総に移って小金城に入城し、高城氏の嫡流として勢力をふるったという[2]。小弓公方と古河公方の抗争では、古河方につき、戦いの最前線を守った。国府台の戦いで足利義明が倒れると、それまで主人であった(原氏)から自立し、「小金領」と呼ばれる領地を支配した。1546年(天文15年)4月25日、小金城で没する[2]。
脚注
注釈
- ^ 諸説あり
出典
- ^ 千野原靖方 2009, p. 251、2.
- ^ a b c 千野原靖方 2009, p. 252.
- ^ 下山治久 2006, p. 380.
- ^ 松戸市立博物館 1996, p. 252.