馬場氏
少弐氏族の馬場氏
少弐氏は藤原北家秀郷流を称する。少弐氏族の馬場氏は少弐頼尚の弟・(経員)(つねかず)により創始され、(頼興)(よりおき) - (頼継)(よりつぐ) - (資幸)(すけゆき)と続いた後、少弐教頼の弟・(肥前守頼経)(よりつね)が養子入りした。この家系からの輩出者として、頼経の孫である馬場頼周が著名。
甲斐武田家譜代家老の馬場氏
清和源氏の祖の源満仲の嫡子の源頼光にはじまる摂津源氏の源仲政(馬場仲政。源頼政の父)を祖とする。『(馬場家譜)』によれば、馬場氏は源頼光の摂津源氏の後裔で、美濃源氏の土岐氏の祖となる源光信(土岐光信)の孫で美濃国土岐郡に土着した土岐光衡の一族。甲斐国巨摩郡教来石(北杜市白州町)に移り、教来石氏を名乗る。(教来石駿河守信明)は甲斐守護武田信重の娘婿となり馬場氏の名跡を継ぐ。この馬場氏とは木曾家村の三男・(馬場常陸介家景)を祖とする木曾氏の支流である。
武田信玄・勝頼期の譜代家臣である馬場信春(信房)は、もとは甲斐北西部の在郷武士団である武川衆に属する教来石氏の出自で教来石景政と名のっていたという。『甲陽軍鑑』によれば、武田家臣で教来石信明((馬場信明))の4代後の馬場虎貞が武田信虎(信玄の父)を (かんげん)して手討ちされたため、天文15年(1546年)に信玄の命により景政は同族の馬場氏の名跡を継ぎ(馬場美濃守信春)と名乗る。信春は信玄・勝頼期の重臣として活躍し、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死する。
信春の子・馬場民部少輔昌房(美濃守)は長篠合戦後に家督を継承し、牧之島城(長野県長野市信州新町)の城代となる。『信長公記』によれば、天正10年(1582年)2月の織田・徳川連合軍の(甲斐征伐)に際しては信濃深志城(長野県松本市)を守備し、織田長益に城を明け渡し退去しており、その後戦死もしくは刑死したものと考えられている。
馬場氏の子孫には、馬場民部少輔の3男の系列になる甲斐国稲門朝気邑(現在の山梨県甲府市(朝気町))の(武田浪人)で郷士の馬場彦左衛門の家系、江戸幕臣、和泉国淡輪村郷士、越後国松岡村郷士、下野国上三川村郷士などがある。主家武田氏との縁組も何代かにわたり行われたため、武田氏の一族として記される場合もある。上三川町の馬場氏は江戸期には累代名主職を務めており、一族の家紋は武田菱である。また、民部少輔の娘は(青木信時)の子・(信安)の室となっている。
穴山家家臣の馬場氏
武田家親族衆で甲斐河内領の領主・穴山氏の家臣には馬場忠時(八左衛門尉)がいる。忠時は穴山信君・勝千代に仕える。天正15年(1587年)6月に勝千代が死去すると徳川家康の五男・万千代(信吉)が穴山武田氏を継承すると忠時ら穴山家臣も万千代に仕え、天正18年(1590年)に万千代の移封に伴い下総国小金・常陸国水戸へ移る。慶長8年(1603年)9月に万千代が死去すると家中では対立が発生し、忠時は改易され大久保忠隣に預けられる。慶長18年(1613年)12月12日に忠時は家康に対し忠隣の謀反を訴え、大久保家の改易の発端になったという。その後の忠時・子孫の動向は不明。
清和源氏新田氏族の馬場氏
肥後国益城郡木山村より起こる木山氏流の豪族。もともと(木山氏)が馬場を名乗っていた。
『木山家文書』によれば、1589年(天正17年)の天草合戦のとき加藤清正と一騎打ちをして討死にした木山弾正惟久(益城郡木山城主)の子孫が、鹿児島出水に逃れ母方の吉田姓を名乗り、木山城に残った者たちが馬場姓を用いる。木山氏は、島原の乱後の1641(寛永18)年に、天草が幕領となって以来、幕末まで11代にわたって本戸組大庄屋を世襲し、その際、一貫して本渡馬場村庄屋を兼帯している。肥後国天草郡本戸馬場村と益城郡木山の馬場姓とは、同じ木山氏流である。