歴史
美濃源氏の一族の土岐氏の第3代守護職、土岐頼康は、信濃国、伊予国平定の功により、美濃国・尾張国・伊勢国の3ヶ国の守護職となる。手狭となった長森城に代わり、1353年(文和2年)、川手城を築城する。以降第11代土岐頼芸までの本拠地となる。
旧木曽川(現在の境川)と荒田川に挟まれた自然の要塞といってよい地に築かれた城郭であった。城郭といっても、広大な敷地に神社・仏閣等を設置し、本殿は御殿風の建物であった。戦う城でなく、住居としての城である。
1467年(応仁元年)、応仁の乱により都から逃げ延びた公家らが、当時の守護職で力のあった土岐氏を頼り、川手に移住。これにより川手の地は都文化の花を咲かせることになる。当時その繁栄はかなりのものであり、西の山口(大内氏)東の川手と言われた。
しかし1494年(明応2年)、土岐氏の相続争いを発端とする船田の乱により、城は焼失する。後に再建されるが、1530年(享禄3年)、土岐氏を追放した斎藤道三が稲葉山城に拠点を移したことにより廃城となる。城下町である川手(現在の岐阜市上川手、下川手)は廃城後も斎藤道三等の加護で繁栄し、当時来日した宣教師等がその繁栄振りを書き残している。しかし、織田信長の時代には川手の町は殆ど岐阜に移り衰退した。
現状
脚注
- ^ 「岐阜市内の指定等文化財一覧」岐阜市公式HP