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生涯
寛永2年(1625年)、駿府藩主徳川忠長の附家老であった遠江国掛川城主の朝倉宣正の世子朝倉宣親の長男として誕生した。寛永6年(1629年)に父が26歳で死去したが、祖父の宣正は健在であった。しかし寛永9年(1632年)に徳川忠長が改易され、朝倉家も除封されため、外祖父の酒井忠勝に養われた。
麻田藩2代藩主・青木重兼には嗣子がなかった。重兼の正室は酒井忠利の養女[1]であり、忠利の長男である忠勝の三男・可一を養嗣子として迎えたが、寛永21年(1644年)6月に17歳で早世した。そこで忠勝の外孫である重正が婿養子として迎えられ、承応元年(1652年)、重兼の娘(後の慶雲院)を正室とした。
寛文12年(1672年)12月9日、重兼の隠居により跡を継いだ。同月28日、従五位下・甲斐守に叙任された。元禄3年(1690年)5月18日、(大番頭)に任じられた。元禄5年(1692年)1月11日、御留守居に転じ、さらには3月1日、御側衆となるなど、徳川綱吉から厚い信任を受けた。
重正は元禄6年(1693年)8月15日に亡くなるが、直前の9日に、綱吉から侍医の(森雲仙)、(曾谷長順)、杉山検校の3名を特に派遣されて診療されていることが、綱吉の信任ぶりを示していると言える。享年69。白金の瑞聖寺に葬られた。家督は正室の子で次男の重矩が継いだ。
養父の重兼が菩提寺の瑞聖寺を創建したように、重正もまた禅宗に傾倒していたようであり、『土芥寇讎記』中で重正は禅学に傾倒し過ぎている、と苦言を呈されている。
系譜
脚注
出典
- 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 丹治氏青木」『寛政重脩諸家譜 第4輯』國民圖書、1923年 。