青山 忠敏(あおやま ただゆき)は、江戸時代後期の大名。丹波国篠山藩第6代(最後)の藩主。官位は従四位下・左京大夫。青山家宗家20代。
生涯
天保5年(1834年)2月21日、5代藩主・青山忠良の次男として江戸で誕生した。嘉永3年(1850年)12月16日、従五位下・因幡守に叙位・任官する。文久2年(1862年)2月29日、父が病気を理由に隠居したため、家督を継いだ。幕末期の動乱の中では、譜代大名の名門のため佐幕派として行動し、文久3年(1863年)8月、二条城守備を務め、元治元年(1864年)5月には従四位下に昇叙され、7月の禁門の変にも出兵した。8月9日には左京大夫に遷任される。
元治2年(1865年)1月20日、奏者番に任じられる。慶応4年(1868年)1月からの戊辰戦争では、藩内で佐幕派と尊王派が争い、結局は西園寺公望ら新政府軍が侵攻して来ると新政府に降伏し、五箇条の御誓文の席にも参列した。明治2年(1869年)6月19日、版籍奉還により篠山藩知事に任じられた。同年、遠江国にあった1万石の藩領が、静岡藩に移された徳川家達の領土として組み込まれたため、代替地として丹波・但馬国国内で1万石を与えられている。