雄別炭山駅
雄別炭山駅(ゆうべつたんざんえき)は、北海道釧路市雄別二十二線にあった、雄別鉄道雄別本線の駅である。同線の終着駅であり、雄別炭鉱からの石炭積み出しに使われた[1]。同線の廃線とともに廃駅となった。
概要
当路線の終着駅として設けられたが、当初は運輸事務所も無く、大祥内(おしょうない)[2]専用線からの炭車の組み換えと蒸気機関車への給炭水を行うだけの中間駅的な存在でしか無かった。雄別通洞[3]の完成により駅構内端に設けられたホッパーから積出しが始まると、積出線や坑木線など多くの側線が敷かれて、炭鉱山元の駅らしくなっていった。大祥内専用線時代は専用線の強い曲率線形(最小R80)により小型の非力な機関車を使用せざるを得ず、勾配がきついため[4]逸走事故が多く発生していた[5]。このため当駅の数カ所に逸走止線が設けられていた。また当駅が終点であるが、大祥内専用線では初期は貨車で、後には小型客車で作業員の輸送も行なっていた[6]。貨車の場合、石炭で満車の時は荷の上にしがみついている外は無く、危険であった。
歴史
- 1923年(大正12年)
- 1938年(昭和13年) - 雄別通洞完成に伴い当駅構内の新選炭機から石炭積出し。
- 1941年(昭和16年)頃 - 大祥内専用線廃止(馬車軌道に転換)。
- ? - 運輸事務所が新釧路駅から移転。
- 1945年(昭和20年) - 起点42.0kmから舌辛川河原へズリ捨用分岐側線約0.78km設置(廃線まで残る)。
- 1947年(昭和22年)
- 昭和30年代 - ディーゼルカー導入により列車増発体制となり島式ホーム(3,4番ホーム)増設及び跨線橋設置。
- 1957年(昭和32年)頃 - 導入機関車に合わせて転車台を径の大きいものに更新。
- 1970年(昭和45年)4月16日 - 当路線廃止に伴い廃駅。
構造
駅舎は西側に位置していた。
通洞完成前はコンクリート製単式ホーム1面1線(1番線)の外3本の操車場 (鉄道)#構内・留置線(2-4番線)を有し、そこから北へ大祥内専用線と機関庫線、検車線が分かれ、大祥内専用線起点にも2本の仕訳・留置線を有していた。
通洞完成後の最終的な当駅の状況は、切り欠きホームを有するコンクリート製単式ホーム1面2線と中線を挟んで木造の島式ホーム1面2線、駅舎横北側に貨物ホームと引込線、北側ヤードには選炭機と積込線3本、留置線3本、機関庫線、検車線、そのほか坑木線など側線数本を有した。
また、運輸事務所が新釧路駅から移転して設置され、修繕工場もあり、旅客ホーム間に跨線橋が設置されていた。
隣の駅
- 雄別鉄道
- 雄別本線
- 真澄町駅 - 雄別炭山駅
参考図書
- 『雄別炭礦鉄道 50年の軌跡』大谷正春著
- 『阿寒町百年史』
脚注
- ^ 雄別炭鉱閉山50年(8) 雄別鉄道各駅めぐり・下「炭鉱や街、駅も活気」『釧路新聞』2020年10月5日(1面)
- ^ 旧字オショナイに当て字された大祥内の読み方は、大楽毛(おたのしけ)と同様に「大」を短く「お」と読む。
- ^ 通洞完成までは各所に坑口が散在していたため非効率であったが、坑道を各坑へ繋げて一つの坑口にまとめる集約合理化が行われた。
- ^ 当駅基部の標高は約101m、大曲選炭機は130m、大祥内専用線延長2700m。平均10パーミルだが20パーミルを超える場所もあった。
- ^ 時期不詳だが、逸走止ポイント切り替えが確実に出来ていなかったため、逸走して来た車列が脱線転覆し、20数名の死傷者を出す事故も起きていた。
- ^ 専用線に地方鉄道の免許はなかったが、沿線各所に炭住が散在していたため、住民の足代わりとなっていた。
- ^ 『官報』1923年01月19日 鉄道省彙報「地方鉄道運輸開始」(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 大祥内専用線終点の大曲選炭機の座標は 北緯43度14分14.7秒 東経144度4分15.7秒 / 北緯43.237417度 東経144.071028度。なお、崖崩れ等のため現在は当時と地形が少し変わっている。
外部リンク
- 北海道立図書館 北方資料デジタル・ライブラリー
- 設置当初の雄別炭山駅 雄別砿業所絵葉書(3ページ目を手動選択してください。)
- 大曲選炭機と大祥内専用線 雄別砿業所絵葉書(2ページ目を手動選択してください。)
関連項目
