陳 瑀(ちん う、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家、武将。字は公瑋。徐州下邳国淮浦県(現在の江蘇省淮安市漣水県)の出身。父は陳球、弟は陳琮、従兄弟に陳珪。
生涯
孝廉に挙げられ、三公府に辟されて洛陽の市場の長官を務めた。後に太尉府に辟されたが行かなかった。永漢元年(189年)、議郎を拝した。
『英雄記』によると、初平三年(192年)揚州刺史の陳温が病死すると袁術によって揚州刺史となり、陳瑀は寿春に駐屯する。その後の193年、封丘で曹操に破れた袁術は寿春に敗走してきたが、陳瑀はこれを拒絶した。袁術は退いて陰陵県に拠り、兵を糾合して寿春を攻めてくると、陳瑀は恐れて弟の陳琮を和睦の使者に送ったが進軍してきたため[1]故郷の下邳に逃れた[2]。
その後は広陵郡海西県に駐屯した。建安二年(197年)、朝廷から孫策と呂布と呉郡太守代行・安東将軍の陳瑀に袁術討伐の詔勅が下った。しかし孫策が銭唐まで進軍すると、陳瑀は都尉の万演に密かに長江を渡らせ、丹陽、宣城、涇、陵陽、始安、黟、歙の諸県の賊に印綬を配り、祖郎、焦已、厳白虎らも内応して孫策支配下の諸郡を攻撃した。孫策自身は厳白虎討伐にあたり、呂範と徐逸が海西県の陳瑀を攻撃して、大いに破ると大将の陳牧を斬り、配下の妻子ら4千人を捕らえた。[3]