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阿部 正次(あべ まさつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。武蔵国鳩ヶ谷藩、上総国大多喜藩、相模国小田原藩を経て、武蔵岩槻藩初代藩主。また、大坂城代を務めた。阿部家宗家初代。
略歴
永禄12年(1569年)、阿部正勝の長男として三河国にて誕生[1]。母は今川氏家臣・(江原定次)の娘。慶長5年(1600年)に家督を継ぎ、武蔵鳩谷(埼玉県川口市)5000石、慶長15年(1610年)に下野国鹿沼(栃木県鹿沼市)と転ずる。
慶長19年(1614年)の(大坂冬の陣)では、大番組衆を率いて従軍し諸将が進軍を留まる中、大坂城に一番に突入して奮戦、一番首も挙げて戦功第一と証せられた。戦後は急速に加増を重ね、寛永3年(1626年)には8万6000石余となり、大坂城代に任じられ、死去するまで22年間もの長期にわたって務めた。
寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱の際には、大坂城代として江戸・九州間の連絡・調整にあたった。寛永15年(1638年)4月22日、4万6000石を嫡男・重次に譲り、1万石を孫の正令(のち阿部忠秋の養子)に分与し、自身は3万石を領する。11月7日には重次は老中に任命されている。
登場作品
脚注
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 49頁。