略歴
(阿蘇惟国)の子として誕生[2]。
1319年には、大宮司に任命されていた(『神道体系』阿蘇・英彦山所収)。
元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の綸旨を受けて、南朝に帰す。六波羅探題攻略や足利尊氏との戦いに参戦した。その後、長男・惟直に家督を譲って隠居した。(南朝)
延元元年/建武3年(1336年)に惟直が多々良浜の戦いに敗れて自害したため、再び家督を継ぐ事となった。北朝方の足利尊氏の調略で惟時の庶子・(坂梨孫熊丸)が相続者として大宮司に選ばれたため、阿蘇氏内部で内紛が発生する。惟時は北朝側に寝返った。(北朝)
1344年10月28日、征西府が惟時を北朝方に帰したことを心配し、阿蘇惟澄宛てに令旨写を送る。(北朝)
正平4年/貞和5年(1349年)9月26日、惟時は、再び南朝側に帰順する(五条頼元書状写)。(南朝)
同年、10月28日、惟時は、再び北朝方へ寝返る(征西将軍令旨写)。(北朝)
1350年7月19日、足利将軍家御判御教書により、北朝幕府方から北朝大宮司として任命される。(北朝)
同年、11月8日、惟時は、再び南朝へ帰順する(五条頼元言上状写)。(南朝)
脚注
出典
- 熊本日日新聞編纂・発行『熊本県大百科事典』、1982年
- 熊本の風土とこころ編集委員会『熊本の人物』熊本日日新聞社、1980年、38-39頁
- 阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社、2007年