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阿比留氏

阿比留氏(あびるし)はかつて対馬国を支配した氏族である。その後対馬国の支配は宗氏が掌握したが、現在でも対馬においては阿比留姓は最多姓のひとつである。

阿比留氏
本姓 称・蘇我氏、(対馬直氏)?
種別 武家
出身地 上総国畔蒜郡
主な根拠地 上総国畔蒜郡
対馬国全土
(凡例) / (Category:日本の氏族)

歴史

阿比留氏発祥の地は上総国畔蒜郡(現在の千葉県袖ケ浦市付近)であるといわれる。『(津島記事)』などによれば、蘇我満智の末裔である比伊別当国津には比伊太郎行冬、比伊次郎行兼、比伊三郎行時の3子がおり、2男の行兼あるいは3男の行時が、813年(弘仁4年)に対馬国司となり対馬国に渡ったという。その末裔は阿比留氏を名乗り、対馬国在庁官人となり、対馬における最大勢力となり、阿比留氏やその居館は「在庁」と呼ばれた。ただし、津島県直(史料によって祖神は変わり、候補としては建比良鳥命天児屋根命雷大臣命、(建弥己己命)、(押瞻命)がいる[1])の末裔ともされる[2]

「阿比留」の名前の由来は、上県郡(与良郷)黒瀬浜の近くの海辺にある「比留浦」であると考えられる[2]

豆酘観音堂の鐘によれば、正六位上権掾(阿比留宿禰良家)が、寛弘5年(1008年)8月28日に鐘を鋳たという。また、同鐘には仁平3年(1153年)の人物として正六位上行掾(阿比留宿禰吉房)の名前が見える[2][3]

1019年に発生した刀伊の入寇の際には、刀伊の将・龍羽を討ち果たしたという[要出典]

厳原八幡宮神社の古文書には、大治3年(1128年)に、権大掾(阿比留真貞)、その祖父・(己基)、父・(忠好)の名が見える[2]

元久年間(1204年1205年)には(阿比留秋依)が朝廷より従五位下官職を下賜されたとの記録がある[要出典]。なお、秋依はのちに藤原氏を名乗り、末裔は対馬総宮司職を歴任したという[4]

しかし1246年に、(阿比留親元)、あるいは(阿比留平太郎国信)が当時国交がなかった高麗と交易していることを大宰府が咎めたが従わなかったとして、反乱者として太宰府の在庁官人宗重尚により現在の美津島町鶏知において征討されてしまった。そのため対馬国の支配階層からは没落した。

この戦いの中で見える阿比留氏の人物は

  • (阿比留国信)
  • (阿比留土佐守)(国信の子)
  • (阿比留時信)(国信の弟)
  • (阿比留親元)
  • (阿比留禅佑坊国俊)(国信の弟)
  • (阿比留法印)
  • (阿比留長範)(豆酘観音寺の別当)
  • (阿比留長久)(長範の子?)

である[4]

なお、上県郡大領とされる(阿比留禅佑坊国俊)は国信に加勢したものの、現在の上対馬町舟志で討死し、その子供は西津屋に匿われたという[4]

阿比留氏は没落したものの、最大勢力であった名残から、阿比留は対馬国中に広がったことから、現在の長崎県対馬市では最多姓のひとつである。

末裔として、応永2年(1395年)に(元嶋神社)の宮司になった対馬大掾(阿比留政行)や、応永4年(1397年)に(雞知住吉神社)の宮司になった対馬大掾(阿比留三郎兵衛)などが見える。

また、現在の鹿児島県出水郡においても阿比留氏がいるが、これは同郡が一時期宗氏の所領になったことから、その時の支配階層の子孫である可能性がある。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/ujizoku/tsushimanoagatanoatai/
  2. ^ a b c d 太田亮『姓氏家系大辞典』第1巻(三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1942年)
  3. ^ https://www.city.tsushima.nagasaki.jp/material/files/group/3/kouhou201905_04.pdf
  4. ^ a b c 『(津島記事)』

関連項目

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