阿曽沼 広秀(あそぬま ひろひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸国安芸郡世能荒山荘(現在の広島県広島市安芸区(中野))を本拠地とする国人である阿曽沼氏の当主で鳥籠山城主。大内氏に属していたが、後に毛利氏家臣となった。
生涯
阿曽沼氏は安芸国安芸郡世能を本拠地とする国人。阿曽沼氏は戦国期、大内氏に属していたが、大永3年(1523年)頃に大内氏を離反して尼子氏に味方するも、大永7年(1527年)に大内氏重臣の陶興房に攻められて降伏し、再び大内氏に属した。
天文20年(1551年)の大寧寺の変で大内義隆が討たれると、翌天文21年(1552年)に毛利元就が兄・(阿曽沼隆郷)の鳥籠山城を攻撃したため、阿曽沼氏は毛利氏に帰属した。この時、隆郷が隠居して広秀が後を継ぎ、同年の備後国(志川瀧山城)の(宮光音)攻撃に参加した。
その後も厳島の戦いや防長経略などで活躍し、永禄12年(1569年)の立花城の戦いでは(宝満城)で大友軍の退路を遮断する高橋鑑種の援軍となった。また、永禄13年(1570年)4月17日の牛尾城攻めや天正3年(1575年)1月1日の(備中国吉城)攻めでは、いずれも自ら敵の首1つを討ち取るなどの活躍を見せている[1][2]。
しかし一方で、元亀元年(永禄13年、1570年)の出雲遠征では参陣を遅らせて元就からの催促を請けていたり、毛利氏から課せられた公事に対して不満を表明したりするなど、天文21年(1552年)に毛利氏に属してからも自立性を維持していた。
また、室町幕府とも関係を持ち、永禄3年2月20日(1560年3月16日)には13代将軍・足利義輝の仲介で朝廷から中務少輔の官途を拝領していた。このこともあって、天正16年(1588年)には翌年の足利義輝の25年忌の仏事料を納め、真木島昭光、(飯尾昭連)、織田信秀から礼状を送られた。