事績
最初は、洮南屯墾局総弁をつとめた。後に張作霖の奉天派に属し、吉林・黒竜江榷運局局長、奉天賑務局局長、山東賑務督弁を歴任した。[1][2]
1927年(民国16年)6月、北京政府の潘復内閣で財政総長等に就任した。なお閻沢溥は、北京政府最後の財政総長である。翌年6月の張作霖敗北後に、閻も張に随従して奉天に引き返した。その途中、張が関東軍に爆殺されたが(張作霖爆殺事件)、閻は難を逃れた。後に下野し、実業家となる。[1][2]
1931年(民国20年)9月に満州事変(九・一八事変)が発生した後に、閻沢溥は奉天辺業銀行(東三省辺業銀行とも)総裁に就任した。[3]翌年の満州中央銀行成立後に辺業銀行は廃止されたため、閻は再び下野した。その後まもなく、奉天市において日本軍により銃殺された。享年54。[1][2]