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関税自主権

関税自主権(かんぜいじしゅけん)とは、国家が輸入品に対して自主的に関税を決められる権利。一般に関税自主権が話題にあがる時は、関税自主権がない事について述べられることが多いが、一般にここでいう「関税自主権がない」とは他国が勝手に税率を設定できることを指すのではなく、税率の改定に他国との交渉を必要とする状態を指す(協定税率)。

日本史においては、江戸幕府末期に諸外国と結ばれた不平等条約に関する話題として関税自主権が取り上げられることが多い。

現在の日本は世界貿易機関(WTO)協定に基づきほとんど品目について協定税率を設定しているが、この状態を捉えて「関税自主権がない」とはいわれない。これは不平等条約における関税自主権の喪失は、片務的であったが、現在の協定税率は相手国の交渉に基づき互恵的(相手国も義務を負う)に設定されているからである。

関税の意義

そもそも国家において租税は国家の運営や歳入歳出に係る根幹である。その上で特に関税は、単純な国家収入の確保という目的以外にも、自国産業の保護や振興政策という側面や、外交の交渉材料という側面がある。例えば、ある発展途上国が自国の工業を振興しようとしても、工業先進国と比較して絶対劣位にある場合には、自由競争下では安い他国製品に駆逐されてしまう。そこで輸入関税を導入することによって他国製品の価格競争力を削ぎ、国内において対等もしくは自国製品が優位な状況を作り出すことができる。また、同じ種別の製品であっても、輸出元の国家によって税率を変更することで、特定の国への信頼関係の構築など、有力な外交材料となる(最恵国待遇)。

一方で他国からすれば高い税率は自国製品の競争力を削ぐ上に、その税分は何の利益にもならないため、低い税率が望ましい。そのため、関税は外交において重要な交渉事となる。例えば農業国は工業国からの工業品の税率を下げる代わりに、工業国は農業国からの農産物の関税を下げるといった互恵関係を構築する。これは比較優位国際分業といった自由貿易の推進といった形で現れることもあるし、その関係を利用して、競合する産業国を経済圏から締め出すといった経済同盟の構築といった外交政策も行われうる。

また、関税は輸出品に設けられる場合もあり、歳入目的の場合もあるが、国産品の品不足を防ぐ目的で課税される場合がある。

以上の様に、関税自主権とは国家主権に関わる重要な要素であるが、関税自主権がない協定税率だからといって、一概にそれが国家主権の侵害であったり、経済的損失であることは意味しない。

幕末・明治の日本

1858年(安政5年)の日米修好通商条約の当初、輸出税は一律5%、輸入税は1類(金銀、居留民の生活必需品)は無税・2類(船舶用品・食料・石炭)は5%・3類(酒類)35%・4類(その他)20%であり、神奈川開港の5年後には日本側から税率引上を要求できる、関税賦課は従価税であり、日本側も決して不利益とは言えないものであった。

日米修好通商条約の時点で日本は関税自主権を失ったというのが定説であるが、これには異論も出されている[1]。日米修好通商条約の付属文書である「日米貿易章程」には「右(関税率)は神奈川開港の後五年にいたり日本役人より談判次第入港出港の税則を再議すへし」[2]となっている。この条文の場合、日本政府が関税率の改訂を提起すれば米国と再交渉するというように解釈できる。再交渉が必要であるとすれば、日本の意志のみで関税率を変更できないことになり、関税自主権はないと解釈できる。しかしながらこの条項の英語の原文は以下のようである。

Five years after the opening of Kanagawa, the import and export duties shall be subject to revision, if the Japanese government desires it.[2]

「shall be subject to revision」は法的拘束力をもって改訂されなければならないことを意味する。すなわち、日本政府が関税率の改訂を望むなら、アメリカ政府は条約の義務としてそれに同意しなければならないことを意味する。すなわち、関税率の決定権は日本政府にのみあって、アメリカの意志は反映されない。これは日本に関税自主権があると解釈すべきである。日米貿易章程の和文は誤訳であり、アメリカ側は日本の関税自主権を認めていたというのが実態である[3]

日本が名実ともに関税自主権を失ったのは1866年(慶応2年)の改税約書によってである。長州藩が仕掛けた下関戦争の敗戦によって徳川政権は300万ドルの賠償金を課せられた。イギリス公使のパークスは賠償金請求をテコに徳川政権を揺さぶり、関税率の削減を要求。兵庫沖に4か国連合艦隊を並べて軍事的な威圧をもとに、賠償金の減免と引き換えに、天皇による条約勅許と兵庫開港と関税率削減を要求。天皇が兵庫開港の勅許を下さなかったため、徳川政権はついに賠償金の支払いと関税率削減の要求をのまざるを得なくなった。改税約書では、輸入品89品目と輸出品53品目を当時の従価を基にした5%の従量税とし、無税対象を18品目・その他は一律従価5%に改められた[4]。同時に、もちろん日本側の意志で関税率を変更することもできなくなった。従価税であれば、価格が上昇すれば関税収入もそれに比例して上昇するが、従量税であれば価格に関わり無く量に応じた関税を払えばよく、幕末の混乱期のインフレによって事実上の関税免除に近い状態になってしまったのである。

一方で、低い税率に支えられて日本と諸外国との貿易関係が拡大したこともまた事実である。低関税による自由貿易の推進は、明治政府には満足な収入をもたらさなかったが、綿工業の成長など国内産業には大きな発展をもたらした。

明治政府は財源確保のため、輸出関税自主権回復に血道を上げることになる。欧米列強との間に初めて関税自主権を回復できたのは、日露戦争後に1907年に締結された(日露新通商航海条約)であった。その後、1911年にアメリカを始めとする他の列強は日本と平等条約(日米通商航海条約など)を締結し、完全な回復は現実となった。それに大きく貢献したのは、小村壽太郎である。

脚注

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  1. ^ 関良基『日本を開国させた男、松平忠固』作品社、2020年、pp.149-160
  2. ^ a b 外務省条約局編『旧条約彙纂』第一巻第一部、外務省、1930年、p.42
  3. ^ 関良基『日本を開国させた男、松平忠固』作品社、2020年、pp.155-157
  4. ^ 外務省条約局編『旧条約彙纂』第一巻第一部、外務省、1930年、pp.45-78

関連項目

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