鍾 毓(しょう いく、? - 263年)は、中国三国時代の魏の政治家。字は稚叔。豫州潁川郡長社県(現在の河南省許昌市長葛市)の人。父に鍾繇、弟に鍾会がいる。
概要
14歳で散騎侍郎となり、太和初に黄門侍郎に遷った。そして太和4年に父の鍾繇が死去したため、その爵位を継いだ。正始年間には散騎常侍となった。また曹爽が蜀征伐を行った際、苦戦して増援を要請する曹爽に対して撤退を勧めた。しかしその後曹爽からの信頼を失ったため、侍中に左遷された上で、魏郡太守に移った。曹爽の失脚後は中央に復帰して、御史中丞・御中廷尉となった。
正元元年に毌丘倹が乱を起こすと、鍾毓は節を持して揚州と豫州の慰撫に当たった。その後尚書となっている。甘露2年には諸葛誕が乱を起こしたため、司馬昭に従って討伐に赴き、その後青州刺史となり後将軍を加官された。さらに都督徐州諸軍事・仮節となった後、都督荊州諸軍事に転じた。
景元4年に死去し、車騎将軍を追増され、恵侯と諡した。息子の鍾駿が爵位を継いだ。
『三国志演義』には第107回に登場する。鍾会と共に曹丕に謁見する際、8歳であった鍾毓が満面に汗を掻いていたため、「卿何を以て汗するや?」と下聞され、「戦戦惶惶、汗出如漿」と駢文をもって答えた(惶と漿はともに平声陽韻)。しかし、「卿何を以て汗せざるや?」と下聞された7歳の鍾会が、「戦戦慄慄、汗不敢出」と一枚上手の駢文で答えた(慄と出はともに入声で類似韻)ため、人々はかえって鍾会を誉めそやすこととなっている(元になった話は『世説新語』にある。鍾会は225年生まれであり、曹丕の崩御時には2歳であったので、この話は史実ではない)。
逸話
後将軍・鍾毓の長史となった魏舒は鍾毓が射的の遊びをする際に常に得点係をしていたが、ある日、人数あわせで参加した時があった。鍾毓らは魏舒の実力を知らなかったため、彼の矢が全て命中すると参加者はみな驚愕した。鍾毓は「私はそなたの才能を知り尽くしていなった。このことは弓の腕に限らないだろう」と讃嘆して謝った。