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針博士

針博士(はりはかせ)は、宮内省典薬寮に属する職員の1つ。従七位下相当。定員1名。ただし、従七位下以上に栄達する者も多数出ている。(針生)の教育と(針師)の監督を行った。「鍼博士」とも記載された。

概要

701年大宝元年)には大宝律令医疾令が、続けて757年天平宝字元年)には養老律令の医疾令が発せられ針博士が設置された。監督する針生は定員30名、針博士の下で基礎教養2年及び専門教育7年(実技及び専門書の講読)を受けた後、針博士による卒業・任官試験を受けて合格したものが針師として針治療の実務にあたる。更にその中の優秀者から針博士は選任されたのである。鍼博士の地位にあった丹波康頼医心方を著し献上した。これが日本最古の医学全書と言われる[1]

平安期は当初実力による任命で、現代で言う教授職に近いものであったようだが、後に形骸化し名誉職と変わっていった。室町時代に医官制度が廃止され、名実共に針博士はすたれていった[2]とも、明治維新までは針博士のみは続いたともある[3]

歴代針博士

  • 菅原梶成 - 文宗代に入唐し、帰国後に針博士、外従五位下・侍医[4]
  • (深根宗継)[5]
  • 下道門継[6]
  • (葛城高宗)[7]
  • 阿比古氏雄 - 『日本三代実録』の仁和2年(886年)正月7日条に侍医兼針博士で外従五位下と見える[8]
  • 丹波康頼 - 医心方の著者。子孫は代々針博士あるいは典薬頭を輩出した。子孫に幕府医学館の多紀安琢、俳優の丹波哲郎などが居る。
  • (丹波忠明) - 丹波康頼の孫。名医と謳われた権針博士、後に典薬頭などを務め四位まで昇った。子の丹波雅忠は、日本扁鵲と呼ばれこれも名医として親子で名を馳せた。

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ 鍼灸の歴史東京有明医療大学 保健医療学部
  2. ^ 吉田和裕「06_日本における鍼灸の歴史-室町から江戸期にかけての受容と発展について-」『社会鍼灸学研究』第5号、社会鍼灸学研究会、2011年、32-53頁。 
  3. ^ 川俣順一「東洋医学と西洋医学」『癌と人』第21号、大阪癌研究会、1994年、4-6頁、NAID 120005248780。 
  4. ^ 清水共造, 「日本医科器械史話(1)」『日本醫科器械學会』 39巻 2号 p.133-137, 1969-02-01
  5. ^ 『日本三代実録』巻第十二、清和天皇、貞観8年正月7日条
  6. ^ 『日本三代実録』巻第二十六、清和天皇、貞観16年8月9日条
  7. ^ 『日本三代実録』巻第三十、陽成天皇、元慶元年正月3日条
  8. ^ 『日本三代実録』巻第四十九、光孝天皇、仁和2年正月7日条

参考文献

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