概要
野崎城は、慈眼寺(野崎観音)の裏山に築かれた城で、標高114.4mの山頂に本曲輪の削平地を構築した。また飯盛山の東の支脈の突き出した場所で、平地が狭かったことから、交通の便、天然の要害で古くから戦略上の要点とされてきた。
慈眼寺から飯盛山城に向かう登山道にこの野崎城が位置する。
沿革
河内国守護(畠山氏)の内紛の際、畠山尚順が立てこもる野崎城に畠山義豊が攻めた、という記述あるのみで、歴史については不明な点が多い。河内国の北半分の拠点であった若江城の支城として、守護代の遊佐氏の一族が守っていたようである[1]。
その後、飯盛山城の築城後には、飯盛山城の出城となっていたと考えられている[1]。野崎城に関する築城、廃城が記載された文献は残されていないが、廃城に関しては、飯盛山城と同時期天正4年(1576年)ではないかと推定されている。
城郭
山頂に本曲輪を設け、その東側に10m以上の堀切を配し、本曲輪の西と北に出曲輪、更に西の山麓の傾斜添いに3段にわたる4つの曲輪を設けている。
西三段目曲輪
西出曲輪
北出曲輪
野崎城からの眺望
城跡へのアクセス
脚注
参考文献
関連項目
- 日本の城一覧
- 野崎城 (曖昧さ回避) - 他の同名城。
外部リンク
- 野崎城周辺の地図/YAHOO!地図情報