野尻城(のじりじょう)は、富山県南砺市野尻にあった日本の城(平城)。南砺市指定史跡[1]。
野尻城 (富山県) | |
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別名 | 野尻城 |
城郭構造 | 平城 |
築城主 | 野尻氏 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 野尻氏、一向一揆勢 |
廃城年 | 戦国時代後期か |
指定文化財 | 南砺市指定史跡 |
位置 | 北緯36度36分11秒 東経136度54分49秒 / 北緯36.60306度 東経136.91361度座標: 北緯36度36分11秒 東経136度54分49秒 / 北緯36.60306度 東経136.91361度 |
地図 | 野尻城 |
歴史
詳しい築城年代は不明。木曾義仲と共に平家と戦った豪族野尻氏が拠っていたと云う。野尻氏は藤原利仁の後裔である斎藤氏の流れを汲むとされるが、古代の在地首長で越中国司も務めた利波臣の後裔とする説もある。少なくとも中世に越中国礪波郡で勢力を誇った石黒氏を始め井口氏や宮崎氏等と同族と考えられている。
南北朝期初頭、野尻氏は越中国守護名越時有の子名越時兼と共に中先代の乱に参加したり、足利尊氏の御教書を得た越中守護井上俊清に従って挙兵して越中国司中院定清と戦い石動山にて敗死させたりと活発に動いている。正平年間(1346年 - 1370年)になり南朝方の有力者だった越中守護桃井直常が越中国庄ノ城を拠点として周辺を支配すると、野尻氏は井口氏らと共に直常の配下となり各地を転戦している。野尻城は庄ノ城の支城として機能した。正平17年(1362年)、同24年(1369年)と二度にわたって北朝方の攻撃を受けている。なお、文和3年(1354年)に加賀国守護(富樫氏春)が幕府より越中野尻庄の地頭職を与えられている事を付記しておく。その後の野尻氏の動向は窺えないが、文明13年(1481年)に一向一揆勢に攻められて城主が降伏したという。同年には礪波郡に勢力を誇った越中国福光城主(石黒光義)が一揆勢力の瑞泉寺らと戦い敗退(田屋川原の戦い)しており、その余波を受けたのであろう。その後は一向一揆勢力下にあった様で、廃城年代は戦国時代後期まで下ると思われる。
現在
城跡には徳仁寺が建ち、その面影は無いが、1971年(昭和46年)7月20日に市の史跡に指定され、大きな石碑と案内板が建てられている。1991年(平成3年)- 1992年(平成4年)には東端で発掘調査が行われ、14-15世紀の遺物が出土した[1]。