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野口シカ

野口 シカ(のぐち シカ、1853年10月18日嘉永6年9月16日) - 1918年大正7年)11月10日)は、日本の助産師野口英世母親

野口英世と母シカ(野口英世記念館蔵)

人物

陸奥国耶麻郡三城潟村(現・福島県耶麻郡猪苗代町)出身。1872年に小桧山佐代助と結婚し、イヌ・清作(後の英世)・清三の2男1女(その他に、死産した男児、及びイヌの双子の兄弟(生後10日ほどで死去[1])がいる)を生む。

清作(後の英世)が囲炉裏に落ちて大火傷を負ったことを生涯に渡って悔い続けていたと言われる。故に、英世が出世していくことを誰よりも悦んだといわれるが、「息子がどんな勲章を貰ったとしても自分にはそれがどのような立派なものかはわからないが、息子が向こうで元気でやっているのなら、それで良い」と息子の出世を決して自慢するようなことはなかったとも伝わる。

シカは農作業のかたわら、45歳の時から副業として産婆を営むようになった。1899年、産婆の開業について政府による新しい免許制度が創設され、全ての産婆に免許の取得が義務付けられた時、シカは満足に文字の読み書きができなかった。幼少時、祖父、両親が相次いで家を出、また幕末という世相でまだ学校制度が確立していなかったため、近所の子供が寺子屋に通う中、身体を壊した祖母や家計のために子守などの丁稚奉公に従事して教育を受ける機会がなかった。そこで、近所の寺の住職に頼み込んで一から読み書きを教えてもらい、苦労の末に国家試験に合格、正式な産婆の免許を取得し、生涯にわたって合計2000件近くの出産に貢献した。そのためシカは近隣の人々から非常に慕われており、また息子英世の名声もあって[2]、1918年11月10日にシカがスペインかぜのため死去した際には村始まって以来の盛大な葬儀が行われたと言われている[3]

前記の通り、成人してのちに読み書きを覚えたが、その後1912年1月23日付でアメリカの英世に宛てた手紙が現存しており、漢字(当て字)・ひらがな・カタカナの混じった文章で表記されている[4]

脚注

  1. ^ 星亮一『野口英世 波乱の生涯』(三修社、2008年)73頁
  2. ^ 英世のポリオや狂犬病の病原体の培養に成功したというニュースは学術誌よりも時のニューヨーク・タイムスといった商業誌で大々的に報道されていた。さながら英世はロックフェラー医学研究所の広告塔のような役割を担っていたかのようであったと言われる。竹田 美文 (2015), “野口英世 その1-明治・大正・昭和の細菌学者達8-”, モダンメディア 61 (2), http://1.33.172.30/modern_media/backnumber/pdf/MM1502_04.pdf 
  3. ^ 同年、英世はロックフェラー財団の意向を受け、スペインかぜが1918パンデミックを起こしている中、当時黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣されていたため、臨終に立ち会うことはできなかった。
  4. ^ 図書館だより 第148号 - 福島県立図書館(2004年8月6日)

外部リンク

  • 野口英世記念館
  • - ウェイバックマシン(2016年2月17日アーカイブ分)
  • 【野口 シカ】 衰退した家運再興願う 福島民友新聞社
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