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郭脩

郭 脩 / 郭 循(かく しゅう / かく じゅん、? - 253年)は、中国三国時代の人物。孝先

郭脩/郭循

長楽郷公
出生 生年不詳
西平
死去 嘉平5年(253年
孝先
主君 曹芳
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解説

平素より品行すぐれ、西州で評判を得た。姜維は郭脩を脅迫したが、屈服しなかった。劉禅が郭脩を左将軍に任命した。


郭脩は劉禅を刺殺しようと思ったが側へ近づく機会がなく、いつも慶賀の際には拝礼しつつ前方へ進み出て、側近の者に留められ、事は成就しなかった。そのために費禕を刺殺したのである。

張嶷は費禕が大将軍となりながら、本性の赴くままに博愛心を示し、帰順したばかりの者を信用し過ぎるのを見て、文書を出してこれを戒め、次のように述べていた。

「昔(後漢の初め)、岑彭は軍兵を率いながら、来歙は節(軍権を示す旗)を杖としながら、共に刺客によって殺害されました。 今、明将軍(との)の位は尊く権限は重いのですから、どうか過去の出来事を鏡となさって、少しは警戒なさってください」

244年の魏軍による漢中侵攻の際、出陣直前に来敏が費禕を訪ねてきて「しばらく君と会えなくなるから、日頃の囲碁の決着をつけておこう」と申し出た。

費禕は勝負を受け、二人で囲碁を打ち始めたが、出陣に際して周囲が慌しくなってゆく様子に、来敏の方が耐えられなくなり「君を試すつもりで勝負を申し出たが、この度胸の据わり具合ならば、いざ前線にあっても何の心配も要らないだろう」と感嘆の意を表した。果たして費禕が前線に赴き、既定の方針に従って指揮を執ったところ、見事に魏軍を撃破し退けたという。

こうした費禕に対してすら、長寧は、君子たるもの、事に臨んでは心に惧れ(おそれ)を抱き、十分に計略を練ったうえで事を成し遂げねばならないと[『論語』の言葉を引いて]非難をしているのである。


そもそも、蜀はちっぽけな国でありながら大きな敵に立ち向かおうとするのであるから、取りえる方策としては、守りを固めるか積極的に戦うかだけであって、どうして己(おのれ)に余裕のあることをひけらかし、悠然として何の心配をすることもなくてよいものであろうか。

そのような態度を取ったというのも、費禕の性格が大まかであって、細かなことに気を配らなかったからであり、結局彼が投降者の郭脩の手にかかって死ぬことになったのも、このとき既にその前兆が現れており、それがやがて実際の禍いとなってその身に降りかかったのではなかろうか。かつて長寧が文偉(費禕)に[正しい身の処し方を]教えたとのことを聞き、いまここで元遜(諸葛恪)が呂候の意見に逆らって[身を亡ぼしたことを]見た。この二つの事件は、その根本において同じ性格のものであることから、並べて『志林』に記載した。後人への戒めとなし、永く世の鑑(かがみ)とするに足るであろう。


曹芳は253年八月、詔勅を下して述べた、「今は亡き中郎、西平の郭脩は、節操を磨き品行を高め、心の持ち方は正しかった。以前、蜀の大将姜維が郭脩の郡に侵入し略奪を働いたとき、捕えられて連れて行かれた[1]。先年、偽の大将軍費禕が多くの軍勢を駆り立て密かに隙を突こう企て、途中漢寿に立ち寄り、大勢の賓客を招いて宴会を催したとき、郭脩は満座の中で刃を振りかざして費禕を斬った。勇敢さは聶政(戦国時代のテロリスト、韓の相(侠累)を刺殺した)に勝るものがあり、その功績は傅介子(漢の人、楼蘭王の安帰を斬殺した)を凌駕している。我が身を犠牲にして仁を成し遂げ、生命を捨てて信義を選び取った人物といってよい。そもそも、死後に褒賞と恩寵を加えるのは、忠義を称揚するためであり、幸いを子孫にまで及ぼすのは、 将来の人に勧奨するためである。よって郭脩に長楽郷公を追封し、領邑千戸を与え、威候と贈り名する。子にその爵位を継がせ、奉車都尉に任命し、銀千鉼・絹千匹を下賜する。生者と死者に名誉と恩寵を授け、永く後世に伝えるものである。」


臣(わたくし)裴松之は考える。昔、生命を捨てて信義の方を選び取った者たちには、必ず道理が存在した。ある者は恩愛に感動し徳義を慕って、生命を投げ出しても後悔しなかったし、ある者は、(国家の)利害をきっかけとして、奮い立ち好機を利用したのである。詔勅の中で称賛されている聶政や傅介子はこの類であった。

これと同類のことでなければ、出鱈目の行為に陥ることになる。魏の蜀に対する関係は敵国であるとはいうものの、(春秋時代の晋の家老)趙襄子が(同じ晋の家老の)智伯を滅ぼしたような仇敵の関係や、燕の太子のような(秦の始皇帝の攻撃による)滅亡の緊急事があったわけではない。そのうえ、劉禅は凡庸暗愚な君主であり、費禕は中どころの才能しかない宰相であって、この二人が生きようが死のうが、魏王朝の興亡にはまったく関係がない。


郭脩は魏国においては、ただの西州の男児であるに過ぎず、最初蜀に捕らえられたときに、節操を守って屈辱を拒否することができなかったうえに、魏に対しても俸禄を賜っていることによる責任はなく、時の君主によって用いられていたわけでもなかった。しかも、理由もなしにもっともらしい態度でとんでもないところで無駄死にしたのだから、何の信義も認められず、何の功績も樹立したともいえず、まったく、もろい柳を折って圃(はたけ)の樊(かきね)にする[2](見当外れの無茶)というべきであり、まったくの無茶というのは、こういうことをいうのである。

脚注及び注釈

  1. ^ 249年、姜維は節を与えられ、再び西平に出陣したが、勝利を得ることなく帰還した。『姜維伝』
  2. ^ 詩経』斉風・東方未明に、「柳を折りて圃(ほ)に樊(かき)す、狂夫は瞿瞿(くく)たり」,瞿瞿とは「驚きあわてるさま。そわそわするさま。また、きょろきょろするさま。驚きふためいて、小心にふるまうさまをいう。また、注意深い。」

出典

  • 『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(陳寿著、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳、ちくま学芸文庫、1993年3月 - (ISBN 4-480-08044-9))
  • 『正史 三国志 5 蜀書』(陳寿著、裴松之注、井波律子 訳、ちくま学芸文庫、1993年3月 - (ISBN 4-480-08045-7))
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