邑井 一(むらい はじめ、1841年- 1910年4月8日[1])は、講談師。本名∶村井 徳一[1]。幼名は「重吉」[2]。
経歴
江戸牛込南町の田安家家臣[2]の子として生まれる。
15歳で旭堂南鱗に弟子入りを試みたが断られ、16歳で(初代真龍斎貞水)に入門[2]して、菊水と名乗る[1]。貞水が(二代目一龍斎貞山)を襲名したことに伴って貞朝と名乗り[1]、初代貞吉の三代目一龍斎貞山に伴い、二代目一龍斎貞吉を襲名する[1]。
芸歴
人物
何か気がかりなことがあると10日も20日も高座に出ず、「邑井一の栄螺病」として有名であった[3]。
「(玉菊灯籠)」「(五福屋政談)」「(小夜衣双紙)」「(鈴木主水の時鳥若葉の青山)」などを創作したと伝わる[1]。
俳諧を好み、義父の四世松籟庵琴雅の跡を継ぎ、五世松籟庵を名乗った(松籟庵松露とする説もある)[1]。
家族
弟子
- (三代目邑井貞吉) - 長男
- 邑井操
- (二代目邑井吉瓶)
- (邑井蘭瓶)