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近衛声明

近衛声明(このえせいめい)は、日中戦争支那事変)中の1938年(昭和13年)に第1次近衛内閣が3回にわたって発表した、対中国政策関連の声明。3回目の第三次近衛声明は近衛三原則とも呼ばれる[1]

概要

第一次近衛声明

1938年(昭和13年)1月16日近衛文麿首相はトラウトマン工作に基づいた和平案提示に対し、蔣介石率いる国民政府が応じないことを原因として、交渉打ち切りの声明を発表した[注 1]。近衛は声明の中で「国民政府を対手とせず[注 2]」と述べ、同時に川越茂駐華大使に帰国命令を発した。これに対し国民政府側も許世英駐日大使の本国召還を決定した(1月20日に帰国)。これにより両国間の外交関係は断絶、日本政府は国民政府との話し合いを自ら放棄し、「(蔣介石政権の打倒を前提とした)新興支那政権」の成立に期待すると公言したことで、戦争終結の手がかりを失うことになった。

声明の全文は以下の通りであった[5]

「帝國政府ハ南京攻略後尚ホ支那國民政府ノ反省ニ最後ノ機會ヲ與フルタメ今日ニ及ヘリ然ルニ國民政府ハ帝國ノ眞意ヲ解セス漫リニ抗戰ヲ策シ内民人 塗炭ノ苦ミヲ察セス外東亞全局ノ和平ヲ顧ルトコロナシ仍テ帝國政府ハ爾後國民政府ヲ対手トセス帝國ト眞ニ提携スルニ足ル新興支那政權ノ成立發展ヲ期待シ是ト兩國國交ヲ調整シ更生新支那ノ建設ニ協力セントス元ヨリ帝國カ支那ノ領土及主權並ニ在支列國ノ權益ヲ尊重スルノ方針ニハ毫モカハル所ナシ
今ヤ東亞和平ニ対スル帝國ノ責任愈々重シ
政府ハ國民ガ此ノ重大ナル任務遂行ノタメ一層ノ發奮ヲ冀望シテ止マス」

第二次近衛声明

日本軍による広東武漢の相次ぐ占領にもかかわらず、和平の見通しが立たなかったため、近衛は1938年(昭和13年)11月3日に再度声明を発表した(東亜新秩序建設に関する声明)。近衛は「国民政府といえども新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず」と述べ、前回の「国民政府を対手とせず」の発言を修正した。

この声明の狙いは蔣介石と対立していた汪兆銘重慶に移転していた国民政府から離反させることにあった。

汪兆銘はこの後重慶を脱出し、昆明を経由してハノイに到着している。

第三次近衛声明(近衛三原則)

1938年(昭和13年)11月、汪派の高宗武梅思平と、日本政府の意を体した影佐禎昭今井武夫との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。汪がこの後に重慶を脱出し、近衛は、1938年(昭和13年)12月22日に対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した。

しかしこの声明からは、「2年以内の撤兵」という合意要件が欠落していた。汪は撤兵の約束を反故にされたことに衝撃を受けたものの、この声明が日本との和平への道を開いたものと受け止め、滞在先のハノイから重慶の国民政府に向けて和平解決を要請する電報を送ったが、国民政府側はこの提案に反対し、汪から全ての職務と党籍を剥奪した。

第三次近衛声明の2週間後、内閣総辞職し、対中交渉は平沼内閣に受け継がれた。

合意文章の改変問題

江崎道朗は、「2年以内の撤兵」の文言が削除された経緯は明らかにはなっていないが、実行者として有力視されているのが尾崎秀実である、と主張している。尾崎は近衛のブレーンとして政権中枢に関与しており、原案の執筆にも与っていた。原案は陸軍に異論があって(中山優)が改めて執筆し、陸海軍立会いの下清書したが、発表前夜、尾崎は首相官邸に執務室を構えており、その夜も尾崎は官邸内の自身の執務室で深夜遅くまで待機していた。後年尾崎はゾルゲ事件で逮捕され、ソ連のスパイであったことが明るみに出ており(後年米政府が公表した、尾崎が日華事変の長期化と国力の減退を狙って密かに文言を削った可能性は大いにある、と主張している[6]

国際環境

アメリカ合衆国議会は1937年1月、戦争状態にある国への武器輸出を禁じる中立法を改正して維持し、また2月には日本とアメリカの産業団体は日米綿業協定を締結して貿易を巡る紛争も収束させたが[7]、7月の日中戦争の勃発を受け、ルーズベルト大統領はイギリス国籍の船がアメリカ製の武器を中国へ輸送することを許可していた。

脚注

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注釈

  1. ^ 近衛が国民の激烈な強硬意見に屈したためとする説もある[2]
  2. ^ 「爾後国民政府を対手とせず」とする場合[3]や「帝国政府ハ爾後(じご)国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」とする場合もある[4]

出典

  1. ^ 世界大百科事典 第2版 株式会社平凡社
  2. ^ 「命が大切だから専制待望?」小林よしのりライジング Vol.351
  3. ^ 世界大百科事典 第2版 株式会社平凡社
  4. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ) 小学館[要文献特定詳細情報]
  5. ^ (昭和十三年一月十六日) 帝國政府聲明 - 国立公文書館 アジア歴史資料センター
  6. ^ 江崎, pp. 209–213.
  7. ^ 『日米の通商競争激成の危機は解消 米国綿織物恊会満場一致で日米綿業協定を承認』、神戸新聞(1937年2月19日)。神戸大学新聞記事文庫。

参考文献

  • 江崎道朗『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』PHP新書、2017年8月24日。ISBN (978-4-569-83654-6)。 

関連項目

外部リンク

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