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概要
辻斬という言葉自体は、中世(室町時代)から見られる[1]が、特に戦国時代から江戸時代前期にかけて頻発した。江戸幕府が開かれる直前の1602年(慶長7年)、徳川家が辻斬を禁止し、犯人を厳罰に処することにした。近世刑法上、辻斬は、10両以上盗んだ罪と同様に死罪である(石井良助『江戸の刑罰』中央公論社)。
辻斬りをする理由としては、刀の切れ味を実証するため(試し斬り)や、単なる憂さ晴らし、金品目的、自分の武芸の腕を試すためなどがある。『八十翁疇昔物語』によれば、番町方の長坂血鑓九郎、須田久右衛門の屋敷と、牛込方の小栗半右衛門、間宮七郎兵衛、都築又右衛門などの屋敷とのあいだは、道幅100余間[2]もあり、草の生い茂った淋しい原であったので、毎夜辻斬りがあったという。
『甲子夜話』第1巻には、「神祖駿府御在城の内、江戸にて御旗本等の若者、頻りに辻切して人民の歎きに及ぶよし聞ゆ。(省略)所々辻切の風聞専ら聞え候、それを召捕候ほどの者なきは、武辺薄く成り行き候事と思召候。いづれも心掛辻切の者召捕へと御諚のよし申伝へしかば、其のまま辻切止みけるとぞ」とある。
幕末には薩摩藩士の間で、江戸辻斬が流行したが、歩行しながら居合斬りをするため、相手は対応できず、警護を2人つけた幕臣ですら殺害された上に、全く表情に動揺がないので気づかれなかったことが『西郷隆盛一代記』に記されており、その一人をこらしめ(辻斬をする薩摩藩士達に警告し)た達人として、50余歳になる斎藤弥九郎(飯田町に道場を開く)の話が記述されている(のちにその辻斬犯は弟子になっている)。
公認された辻斬
古代ギリシアにおけるスパルタにはクリュプテイア(Krypteia)という制度があり、男は7歳から兵営に入り30歳になるまでの間、危険な隠密行動の訓練として、ヘイロタイと呼ばれる奴隷階級民を殺害することが命じられており、戦場での機敏さを養うため、盗みも奨励されていた[4]。いわば、精鋭兵士を作るために辻斬行為を実践的訓練として支配者層が公認したことになる。