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概要
始祖は北条重時(極楽寺流)の次男北条長時。極楽寺流のなかでは嫡流に当たる。長時が第6代執権となったほか、最後の執権(第16代)守時をも出すなど、北条氏の一族では得宗家に次ぐ高い家格を有しており、鎌倉中期以降の得宗家当主以外では、赤橋流北条氏の当主だけが元服時に宮将軍を烏帽子親として、その一字を与えられる特権を許されていた[1]。
元弘3年(1333年)、最後の執権となった守時が鎌倉の戦いで討死し、他の北条氏一門と共に赤橋流も滅びたが、足利尊氏の正室となっていた守時の妹登子を通じて、足利義詮以降の足利将軍家および足利基氏にはじまる鎌倉公方・古河公方家へと赤橋流の血は受け継がれた。
屋敷が赤橋(現在の太鼓橋。(鶴岡八幡宮)の項参照)にあったため「赤橋」を名乗ったと言われている。
人物
系図
脚注
出典
参考文献
- 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年。ISBN (978-4-7842-1620-8)。