豊野 尾張(とよの の おわり)は、奈良時代の皇族・貴族。当初尾張王を名乗り、臣籍降下後の氏姓は豊野真人。知太政官事・鈴鹿王の子。官位は正五位下・(能登守)。
経歴
孝謙朝末の天平宝字元年(757年)5月に三世王の蔭位により无位から従五位下に直叙される。同年閏8月に兄弟の出雲王・篠原王・奄智王・猪名部王と共に(豊野真人)姓を与えられて臣籍降下する。
天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に加勢したらしく、乱の最中に四階昇進して正五位下に叙せられている。称徳朝の神護景雲元年(767年)能登守として地方官に転じた。神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩御した際に、父・鈴鹿王の旧宅を陵墓にすることになり、鈴鹿王の子息が叙位を受けたが、この中に尾張は含まれておらず[1]、これまでに(卒去)したか。
官歴
『続日本紀』による。
脚注
- ^ 『続日本紀』神護景雲4年8月9日条