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豊原 (大奥女中)

豊原(とよはら、生没年不詳)は、江戸時代前期から中期の大奥女中(御年寄、のち上臈御年寄)。本名は不詳。江戸幕府5代将軍徳川綱吉から7代将軍・徳川家継までの3代に渡って仕えた。

生涯

(西洞院時成)の娘として京都で生れた。幼少のころより後宮で仕えており、その才知を見込まれて10代で勾当内侍を勤めた経歴を持つ[1]平内侍と称し [2]、長らく東山天皇に仕えていたが、後に蟄居処分を受けて後宮を追われた(原因は不明)。近衛基煕の『基煕公記』元禄3年(1690年)5月8日条によれば、同年4月29日に長橋(勾当内侍)が禁中で突然髪を切り落とす暴挙に出たと記すと共に公称では16歳とも17歳とも言われているが、実際には15、6歳らしいとも記している。なお、当時の宮廷は東山天皇の実母である上臈局(松木宗子、元禄2年に准后)が統率していたため、勾当内侍の実際の位置づけは高くはないとする見解もある[3]

元禄16年(1703年)、時の江戸城大奥の実力者であった右衛門佐の要請を受けて江戸へ下向し、その後継者として大奥に迎えられた[1][4]。年齢は不詳であるが、前述の近衛基煕の日記に従って元禄3年に15歳であったと仮定すれば、この時には28歳になっていた筈である。なお、以前の蟄居の案件があったために、事前に霊元院と東山天皇の許可を得た上で下向したという[5]

豊原と称し、綱吉付き御年寄となった。宝永3年(1706年)に右衛門佐が没すると、その後を継いで筆頭老女(筆頭上臈御年寄)に就任。同6年(1709年)の綱吉逝去後も大奥に留まり、6代将軍・家宣、7代将軍・家継と、将軍付き筆頭老女を歴任した[6][7]

正徳5年(1715年)3月には姪の「やよ」を養女として大奥に迎え入れ、家継生母・月光院付きの小上臈とするなど[1] 、権勢を保持し続けていたが、8代将軍・吉宗の時代に入ると次席であった常磐井((東園基量)の娘) に筆頭老女の座を譲り、大奥から退いた。その後の消息は明らかとなっていない。

脚注

  1. ^ a b c 竹内誠『徳川「大奥」事典』(2015年、東京堂出版)P253
  2. ^ 國文學編集部 『知っ得後宮のすべて』(2008年、學燈社 )
  3. ^ 石田、2021年、P40・51・172-173.
  4. ^ 一説によると、綱吉が京都所司代に命じて豊原を大奥に招き入れ、自身の側室にしたという話もある。(國文學編集部 『知っ得後宮のすべて』〈2008年、學燈社 〉角田文衛著「豊原殿」。ただし、石田俊は同記事に関して典拠が不明で誤りが多いと批判的に記している(石田、2021年、P186.)。)
  5. ^ 石田、2021年、P172-173.
  6. ^ 宝永6年(1709年)の「分限帳」の記録によれば、将軍付き老女の序列は豊原を筆頭に、常磐井、高瀬、富岡、川島の順である。
  7. ^ 映画や小説などでは家継時代の筆頭女中を絵島(江島)として描いている場合が多いが、絵島は家継の生母・月光院付きの御年寄であり、(将軍付き)筆頭老女は豊原である。

参考文献

  • 竹内誠 『徳川「大奥」事典』(2015年、東京堂出版)
  • 畑尚子 『徳川政権下の大奥と奥女中』(2009年岩波書店
  • 清水昇川口素生 『大奥 女たちの暮らしと権力闘争』(2007年新紀元社
  • (石田俊)『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 (ISBN 978-4-642-04344-1)
    • 「霊元天皇の奥と東福門院」(初出:『史林』94-3(2011年))P12-52.
    • 「綱吉政権期の江戸城大奥」(初出:『総合女性史研究』30(2013年))P160-188.


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