謝介石(しゃかいせき)は満洲国初代外交部総長。満州国の台湾人で最高官職に就任した人物である。字は又安(幼安とも作る)。
生涯
幼少にして私塾に学び、日本統治時代には新竹国語伝習所で日本語を学び、伊藤博文が訪台した際には通訳を務めている。その後日本に留学、明治大学法学部を卒業後、中国天津市の張勲の下で勤務した。
1904年10月から二年間、台湾協会専門学校(現・拓殖大学)台湾語教師。1915年、日本国籍を放棄し中華民国国籍を取得、張勲が1917年に溥儀の復辟を画策した計画に謝介石も参加している。
1927年、謝介石は溥儀の外務部右丞兼天津行在御前顧問に就任、その後吉林省に赴任し、吉林省省長熙洽の吉林省陸軍部尚書に転任している。1932年(大同元年)3月9日に満洲国が正式に建国され、翌10日に謝は初代外交部総長に任官された[1]。同年、中華民国国籍を放棄し、満洲国国籍を取得した。1935年(康徳2年)5月21日、参議府参議に移ったが[2]、直後の25日に初代駐日満州国全権大使に起用されている[3]。謝介石の満洲国での成功を見た多くの台湾人が満洲にわたり行政機関への就職を求めている。謝介石は台湾への一時帰国を果たし、またその後は実業部長などを歴任した。
1937年(康徳4年)6月、謝介石は駐日大使を辞任して満州国に戻り、その後は満洲国国営事業の(董事長)などを務めた。日本の敗戦により満洲国が瓦解すると日本軍協力者として逮捕され、その後北京の獄中で病死した。