生涯 同門の先輩に大野源一、後輩に升田幸三、大山康晴がいる。
第5期(1964年度)王位戦で予選を勝ち抜き、挑戦者決定リーグに進出。リーグ戦白組では1勝3敗に終わった。
順位戦はB級2組に1期在籍。第37期(1978年度)昇降級リーグ4組(順位戦C級2組)は0勝10敗で3つ目の降級点がつき、リーグ陥落するも、1985年3月まで現役を続行した。
1985年5月6日に死去。同日に八段を追贈。
エピソード - 『近代将棋』の講座で加藤治郎が「打ち歩回避のナラズは実戦ではない」と書いたところ、読者に1958年度C級1組順位戦12回戦、佐藤庄平五段-角田六段戦で74手目の△同角不成という実戦例があるという指摘がなされ、棋譜が注目されたことがある。
- 「角田流ひねり飛車」(角田流空中戦法)と呼ばれる戦法の創始者。
- 作家藤沢桓夫が『小説棋士銘々伝』において角田を主人公にした小説『角田流空中戦法』を著している。
昇段履歴 - 1929年 入門
- 1934年10月1日 四段
- 1948年 4月1日 五段
- 1954年 4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
- 1973年11月3日 七段(表彰感謝の日表彰)
- 1985年 3月 引退
- 1985年 5月6日 死去(享年75)
- 1985年 5月6日 八段(追贈)
将棋大賞関連項目脚注 [脚注の使い方]
注釈
- ^ ここでは四段昇段日をプロ入り日として扱う。なお、関西奨励会の創設は1935年であるため、当時は「初段昇段時から専門棋士として扱われていた」可能性がある。昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、「初段からが専門棋士」だった[1]。その頃、それと並行して奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立していった[2]。
- ^ a b ただし、岸本町は1955年成立であり、角田が生まれた時期には未成立。
出典
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