要害山城(ようがいやまじょう・ようがいざんじょう・ようがいさんじょう)は、山梨県甲府市上積翠寺町(かみせきすいじまち)にあった日本の城。躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)の(詰城)として築かれた山城である。1991年(平成3年)に国の史跡に指定された[2]。要害城、積翠山城とも呼ばれる。なお、甲府名山にも選定されている。
要害山城 (山梨県) | |
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麓から望む要害山(2010年12月撮影) | |
別名 | 要害城、積翠山城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 武田信虎 |
築城年 | 永正17年(1520年) |
主な改修者 | 武田勝頼、加藤光泰 |
主な城主 | 武田氏、徳川氏、加藤光泰 |
廃城年 | 慶長5年(1600年) |
遺構 | 堀切、(竪堀)[注 1]、石垣[注 2]、虎口[注 3]、土塁、井戸、郭、土橋[1] |
指定文化財 | 国の史跡 |
位置 | 北緯35度42分10.93秒 東経138度35分53.61秒 / 北緯35.7030361度 東経138.5982250度座標: 北緯35度42分10.93秒 東経138度35分53.61秒 / 北緯35.7030361度 東経138.5982250度 |
地図 | 要害山城 |
立地
所在する甲府市上積翠寺町は甲府盆地周縁の中央北部、相川扇状地の扇頂部に位置する。標高770メートルの丸山と呼ばれる要害山中腹の傾斜地を中心に築かれている。
沿革
『高白斎記』に拠れば、築城は武田信虎時代の永正17年(1520年)6月であるという。武田氏は前年に居館を石和の(川田館)(甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)へ移しており、駒井政武の領地であった積翠寺郷の丸山が城として取り立てられ、館の詰城として砦や狼煙台が築かれたという。
同年には駿河の今川氏勢の武将福島正成が駿州往還(河内路)を甲斐へ侵攻し甲府へ迫っており、信虎は正室の大井夫人を避難させ福島勢を駆逐しているが、夫人はその最中に城中で嫡男(後の武田晴信)を出産したという。
勝頼期の天正4年(1576年)6月1日付武田家朱印状に拠れば、武田氏は要害城から西方に位置する帯那郷(甲府市上帯那町・下帯那町)に対して要害城の普請への召し出しを命じており、帯那郷への河除(堤防普請)と他の諸普請の一切を免除している。『甲陽軍鑑』『甲斐国志』によれば、武田氏時代の城番は駒井次郎左衛門・武藤山城・駒井昌直(右京亮)が務めたという[3]。
武田氏滅亡後、徳川氏の支配期を経て豊臣系大名が入城し、加藤光泰により修築が行われた。文禄年間の修築を示す遺構として穴太積みの石垣が見られる[3]。
熊城
要害城の支城として熊城(くまじょう)があり[3]、要害山城の東側をガードするように築かれている[4]。熊城は標高730メートル付近に立地し、一直線上の小規模な郭と堀切・竪堀、石垣が遺構として残されているが[3]、その中には連続竪堀や(登り石垣状の遺構)もある[4]。熊城に至る案内板は一切無い為、訪城には注意が必要である。
史跡指定
主郭に至る通路や枡形、曲輪、堀切、見張台等の遺構のほか、要所をかためる石垣もほぼ完全に遺存しており、戦国大名武田氏の築いた城郭として、また、中世豪族の居住形態を示すものとして極めて重要であるとして、1991年(平成3年)3月30日、「要害山(ようがいさん)」の名称で国の史跡に指定されたが、主郭以外の整備は行き届いておらず、郭は藪化している所も多い。登上口に説明板が有るが、それ以外、主郭などには解説、説明板等は無い。(土塁、門跡、等のサインは有る。)城に至るまでの案内板は無い、また観光案内所にも要害山城としてのパンフレットは無い。
アクセス
甲府駅からバスで 積翠寺下バス停まで約20分弱、そこから要害温泉と要害山城登山口まで、徒歩約15分、登山口から主郭まで約30~40分。(バスの本数は1日3本と極めて少ないので、要注意)
もしくは甲府駅周辺でレンタサイクルで登山口まで約30~40分程度。
その他 熊の出没地域であり、冬場を除き注意が必要である。
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
- 国指定文化財等データベース