虎関師錬(こかんしれん)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。諱は師錬、字は虎関。父は藤原左金吾校尉で、母は源氏。玄恵の兄弟とする説もある[2]。京都の出身。諡号は本覚国師。漢詩・漢文に優れ、五山文学の代表者の一人である。
生涯
弘安8年(1285年)8歳で臨済宗聖一派東山湛照に師事して参禅し、同10年(1287年)比叡山にて受戒。正応4年(1291年)師を失った後は南禅寺の規庵祖円や円覚寺の(桃渓徳悟)らについて修行したが、この間、(菅原在輔)から『文選』を、六条有房から『易学』を学ぶなど自らの研鑚に努め、該博な知識を得た。その後、円覚寺の(無為昭元)(むいしょうげん)や建長寺の約翁徳倹(やくおうとっけん)の会下に入る一方、仁和寺・醍醐寺で密教を学んでいる。徳治3年(1307年)鎌倉に下向して建長寺の一山一寧を訪れた時、本朝の名僧の事績について尋ねられ、満足に応えられなかったことをきっかけとして、元亨2年(1322年)に白河済北庵で『元亨釈書』を著した。
延元3年/建武5年(1338年)3月に東福寺住持を退いて、翌同4年/暦応2年(1339年)3月に南禅寺住持となったが、興国2年/同4年(1341年)1月これを辞して東福寺海蔵院に退き、海蔵和尚とも呼ばれた。同3年/康永元年(1342年)後村上天皇から国師号を賜る。同7年/貞和2年(1346年)2月近衛基嗣の寄進によって城北柏野に楞伽寺(りょうがじ)を興したが、7月24日に海蔵院にて寂した。享年69。
著作に『元亨釈書』の他、『楞伽経』の注釈『仏語心論』、詩文集『済北集』、語録『十禅支録』、日本最初の韻書『聚分韻略』などがある。
脚注
関連項目
参考文献
- (永井如瓶)「庭訓往来作者考」『庭訓往来諸抄大成』。1904年(明治37年)。