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藤原顕時

藤原 顕時(ふじわら の あきとき)は、平安時代後期の公卿藤原北家勧修寺流、(因幡守)・(藤原長隆)の子。官位従二位権中納言

 
藤原顕時
時代 平安時代後期
生誕 天永元年(1110年
死没 仁安2年3月14日1167年4月5日
改名 顕遠(初名)→顕時
別名 中山中納言
官位 従二位権中納言
主君 鳥羽法皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇
氏族 藤原北家勧修寺流
父母 父:(藤原長隆)、母:(高階重仲)の娘
(藤原有業)の娘、平忠盛の娘、藤原信輔の娘
行隆盛方盛隆、(有隆)、(時光)、顕運、道顕、藤原是憲室、領子
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経歴

天承元年(1131年)に蔵人となり、保延2年(1136年)頃から鳥羽院院司受領としての活動が見られる。久安6年(1150年)に五位蔵人、仁平2年(1152年)に右衛門権佐久寿元年(1154年)に左少弁に任ぜられて三事兼帯となった。

保元元年(1156年)に顕時と改名し、後白河天皇の下で正四位下右大弁に昇進、保元3年8月10日1158年9月4日)に二条天皇践祚に先だって左大弁蔵人頭に任ぜられ、翌平治元年(1159年)に参議に任じられ、同年に従三位に叙せられた。翌永暦元年(1160年)に権中納言応保2年(1162年)には正三位に叙されて大宰権帥を兼ねた。長寛元年(1163年)に大宰権帥を、仁安元年(1166年)に権中納言を辞するが、仁安2年(1167年)1月に従二位民部卿に任ぜられ、間もなく没した。

平家物語においては平清盛に「大小事申し合はせし人」、即ち大きな事から小さな事まで相談に乗ってくれた恩人として回想されており、彼の子・行隆に報恩として左少弁への推薦状、領地の権利書や出仕の為の費用等を用立てている。

系譜

出典

  • 中村文『後白河院時代歌人伝の研究』笠間書院、2005年 283-284頁 (ISBN 4-305-70296-7)
  • 五島邦治「藤原盛方」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) (ISBN 978-4-04-031700-7))
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