九条道家とは、別人です。 |
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藤原 道家(生年不詳 - 長暦2年4月8日(1038年5月14日)[1])は、平安時代中期の貴族。藤原北家御子左流、大納言・藤原長家の長男。位階は従五位下[1]。
解説
下野国に国司として赴任した道家は、下野国の有力者で藤原秀郷(ひでさと)の五代子孫である相模守・藤原公光(きんみつ)と知り合い、その助けを得て任務に励む。公光の子(佐藤左衛門尉公清)(さえもんのじょうきみきよ[2])には子どもがいなかったので、美濃国席田郡の郡司を務めていた守部氏である(守部資信)の第二子の助清(すけきよ、のち佐藤資清)を養子に迎えていた[3]。
道家は、国司の任期を終えて京都に戻った後、朝廷に参内し、任務完了の報告をした。朝廷は、道家の国司としての功績をほめたたえるとともに、伊予国の国司に任じた。道家は、伊予国の国司の任務も無事に果たし、京都に戻る。
「(藤原北家摂関家庶流説)」(「国史大系 藤原氏尊卑分脉系譜、民部卿長家卿尊卑分脉」より『山内氏の始祖の位置づけをさぐる』)によると、朝廷は、道家の功績に従三位を贈るとともに、相模国鎌倉(山内荘)を贈ったとされ、この道家こそ、山内氏の始祖と位置付けられている(佐藤資清が道家の養子になり、のち山内を名乗る)。
脚注
参考文献
- 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年