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藤原説孝

藤原 説孝(ふじわら の ときたか)は、平安時代中期の貴族。藤原北家勧修寺流権中納言藤原為輔の次男。官位は正四位下播磨守

 
藤原説孝
時代 平安時代中期
生誕 天暦元年(947年[1]
死没 不詳
官位 正四位下播磨守
主君 一条天皇三条天皇
氏族 藤原北家勧修寺流
父母 父:藤原為輔、母:藤原守義の娘
兄弟 惟孝説孝宣孝藤原佐理
藤原守仁の娘、源明子源信明の娘)
藤原元尹の娘
尚之、頼明、定輔、定通
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経歴

若狭守外記を経て、一条朝長徳元年(995年右少弁藤原為任を越えて、左少弁に任ぜられる。翌長徳2年(996年)右中弁に昇進し、長徳4年(998年蔵人頭兼左中弁・藤原行成が重病に伏して勤務不能となった際、行成に推挙されて五位蔵人に補せられた。またこの頃、検非違使佐も兼ねて三事兼帯の栄誉にも浴したという。

長徳5年(999年従四位下に叙せられて蔵人を去るが、引き続き弁官を務めて長保3年(1001年)左中弁、長保5年(1003年正四位下と昇進を続けた。一方で、地方官として摂津守を兼ねるが、住吉神社との間で紛争があったらしく、長保6年(1004年)説孝が参内しようとしたところを、説孝を訴えるために上京して陽明門に集まった住吉神社の神人に見つかって、追いかけ回される事件が発生している。

寛弘2年(1005年)右大弁、寛弘6年(1009年)左大弁と弁官の筆頭にまで昇るが、そこで昇進が止まってしまい、寛弘5年(1008年)下僚である左中弁・源道方が正四位上に叙せられて、正四位下に留まっていた説孝と位階が逆転してしまった。さらに、寛弘8年(1011年参議への任官人事において、大弁の経歴が6年にも及んでいた左大弁の説孝は三条天皇の意向で参議になれず、そのために正四位上・蔵人頭兼右大弁の源道方ではなく、大弁を帯びた頭弁がいる場合にもう一方の蔵人頭が越えて参議になれない慣例を破って位階も低い従四位下・蔵人頭兼修理大夫藤原通任が参議に昇任される事態が起こっている[2]

寛弘9年(1012年)説孝はついに参議昇進を断念したらしく[3]、大弁の労8年をもって播磨守を希望して任ぜられ、地方官に転じる。その後、長和4年(1015年)まで播磨守を務めた[4]

官歴

注記のないものは『弁官補任』による。

系譜

『尊卑分脈』による。

  • 父:藤原為輔
  • 母:藤原守義の娘
  • 妻:藤原守仁の娘
    • 男子:藤原尚之
  • 妻:源明子源信明の娘)
    • 男子:藤原頼明
  • 妻:藤原元尹の娘
    • 男子:藤原定輔
  • 妻:生母不詳の子女
    • 男子:藤原定通

脚注

  1. ^ 『弁官補任』
  2. ^ 『権記』寛弘8年12月18日条
  3. ^ 黒板[1994: 186]
  4. ^ 長和5年(1016年)正月に藤原広業が播磨守に任ぜられている(『公卿補任』)。
  5. ^ 『御歴代抄』
  6. ^ a b c d 『権記』
  7. ^ a b 『蔵人補任』
  8. ^ 『尊卑分脈』
  9. ^ a b 『御堂関白記』
  10. ^ 『朝野群載』22

参考文献

藤原説孝
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