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略歴
元暦元年(1184年)、藤原北家秀郷流の(藤原秀宗)の子として誕生。父・秀宗は和田三郎平宗妙の子で、藤原北家秀郷流の養子となった[1]。
最初は内大臣の源通親に仕える。その後、北面武士として朝廷に仕えた。また、建仁元年(1201年)7月に和歌所寄人として輔任されている事から歌人としても朝廷に用いられた。
その後は検非違使大夫尉、出羽守と歴任し、承久の乱では朝廷方の大将として一手を担った。このために戦後、鎌倉幕府の命令で熊野山に追放されて出家の身となり、如願と号した。
系譜
- 父:(藤原秀宗)
- 母:源光基の娘
- 妻:(源秀数)の娘
- 男子:(藤原秀茂)
- 男子:藤原秀行
- 女子:永安門院女房加賀
- 女子:永安門院女房武蔵
- 女子:土御門内大臣女房御方女房備前
- 女子:修明門院女房美作
- 女子:(藤原信康)室
- 妻:不詳(生母不明の子女)
- 男子:(藤原秀範)(?-1221)
- 男子:勢恵
- 男子:秀暹
関連作品
- テレビドラマ
脚注
- ^ 和田三郎平宗妙については、浅香年木『治承・寿永内乱論序説 北陸の古代と中世 2』(法政大学出版局、1981年)において、「注記を信頼すれば」という条件付きで和田義盛の弟・和田宗実に比定され、平岡豊『藤原秀康について』(「日本歴史516」、吉川弘文館、1991年)、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(関幸彦、2012年、吉川弘文館、(ISBN 978-4642064521))。大和典子『「承久の乱」における京方将軍藤原秀康とその周辺』(「政治経済史学500」、日本政治経済史学研究所、2008年」において、浅香説が紹介されている。しかし、和田義盛と秀能の年齢差からいって、秀康・秀能兄弟が義盛の弟宗実の孫という説にはかなりの無理がある。高橋秀樹『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016年)は、越後和田氏の関係史料に兄弟の祖父・秀忠や秀康がまったく出てこないことなどを理由に、和田三郎平宗妙は和田宗実と別人であろうと述べている。
- ^ 『勅撰作者部類』