藤原 是法(ふじわら の これのり)は、平安時代前期の貴族。名は維範・是比とも記される。(但馬守)・藤原常永の子。官位は従四位上・右京大夫。
経歴
式部大丞・蔵人を経て、貞観6年(864年)従五位下・内匠頭に叙任される。以降清和朝では内匠頭を務める傍らで、(安芸権介)・(阿波権介)・(備後介)と地方官も兼ねた。
清和朝後半には左衛門権佐に遷り、貞観16年(874年)に発生した淳和院の火災では、左兵衛佐・源平と共に衛士を率いて火災の対応にあたっている[2]。
陽成朝では左近衛少将を務める一方、元慶元年(877年)正五位下、元慶6年(882年)従四位下と昇進している。のち、従四位上・右京大夫に至る。
官歴
注記のないものは『日本三代実録』による。
- 時期不詳:正六位上。式部大丞。蔵人[1]
- 貞観6年(864年) 正月7日:従五位下。3月8日:内匠頭
- 貞観8年(866年) 2月13日:兼(安芸権介)。12月29日:次侍従
- 貞観9年(867年) 2月29日:兼(阿波権介)。日付不詳:辞阿波権介(父の服喪)
- 貞観10年(868年) 正月16日:兼阿波権介
- 時期不詳:兼(備後権介)
- 貞観12年(870年) 正月25日:兼(備後介)
- 貞観16年(874年)以前:左衛門権佐
- 時期不詳:従五位上。兼(美濃権介)。
- 元慶元年(877年) 11月21日:正五位下
- 元慶4年(880年) 5月13日?:左近衛権少将[3]
- 元慶5年(881年) 正月15日:兼(但馬守)。3月8日:兼(近江権介)[3]。7月16日?:左近衛少将[3]
- 元慶6年(882年) 正月7日:従四位下
- 元慶7年(883年) 正月11日?:止左近衛少将、止近江権介[3]
- 時期不詳:従四位上[1]。右京大夫[1]
系譜
『尊卑分脈』による。