藤原 基良(ふじわら の もとよし)は、鎌倉時代前期の公卿。粟田口基良とも。大納言・粟田口忠良の長男。官位は正二位権大納言。葉川殿と号す。
家系
近衛家庶流の家に生まれたが、父忠良は歌人として知られていた。基良も歌人として名を成すようになる。従三位に叙せられてから権中納言に任ぜられるまで、実に23年間を非参議として過ごしている。権大納言止まりで在任期間も短かった。
中殿和歌御会にて和琴を弾く
基良は順徳天皇が開いた建保6年(1218年)の「中殿和歌御会」にて歌人としての参加だけではなく、(伶人)としても和琴を弾いている[1]。この御会にて弟の家良も歌人として参加を許されているが、この時の位階も家良の方が基良より1段上である。
経歴
以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 建久8年(1197年)4月23日、従五位上に叙せられる[2]。
- 建久9年(1198年)1月30日、侍従に任ぜられる。
- 正治元年(1199年)7月23日、禁色を許される。閏10月24日、左少将に任ぜられる。
- 正治3年(1201年)1月5日、正五位下に昇叙。
- 建仁2年(1202年)1月21日、遠江権介を兼ねる。
- 元久元年(1204年)1月13日、美作権介を兼ねる。同年3月6日、従四位下に叙され、右中将に転任。
- 建永元年(1206年)1月6日、従四位上に昇叙。
- 承元3年(1209年)1月5日、正四位下に昇叙。同月20日、美濃介を兼ねる。
- 建暦元年(1211年)10月29日、従三位に叙される。この時、中将を止める。
- 建保5年(1217年)1月28日、左中将に任ぜられる。
- 承久元年(1219年)1月5日、正三位に昇叙。
- 承久2年(1220年)3月23日、右中将に転任。
- 貞応元年(1222年)1月24日、越前権守を兼ねる。
- 嘉禄元年(1225年)5月26日、父・忠良の喪に服す。7月24日、復任。
- 安貞元年(1227年)4月20日、従二位に昇叙。
- 文暦元年(1234年)12月21日、権中納言に任ぜられる。
- 嘉禎元年(1235年)6月17日、正二位に昇叙。
- 嘉禎2年(1236年)、帯剣を許される。
- 嘉禎3年(1237年)12月25日、中納言に転正。
- 嘉禎4年(1238年)7月20日、権大納言に任ぜられる。
- 延応元年(1239年)10月28日、権大納言を辞した。
- 建長3年(1251年)9月1日、出家[3]。法名は縁空。
- 建治2年(1276年)12月28日、薨去。享年90。