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藤原 光雅(ふじわら の みつまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。権大納言・藤原光頼の三男。官位は正二位・権中納言。後白河法皇の近臣。堀河中納言と号した。葉室光雅とも呼ばれる。
経歴
早くから後白河法皇に近臣として仕える一方、実務能力に優れた事から多方面から起用される。治承2年(1178年)12月に誕生した言仁親王(のちの安徳天皇)の職事となり、法皇と平清盛の対立による治承三年の政変後は清盛の命により新関白近衛基通の執事を務める。法皇と源義仲の対立による法住寺合戦後に松殿師家の年預となる。
文治元年(1185年)12月、源頼朝と源義経の対立で頼朝追討の院宣を奉じた事により、頼朝の要請により右大弁を解官される。のちに許されて文治2年(1186年)に5月には還任。のちに権中納言。