島津宗家8代当主島津久豊の次男の島津用久(好久)よりはじまる。用久は兄の島津忠国から宗家当主・薩摩守護を継承したが、心変わりして当主の地位を取り戻そうとした兄が室町幕府の支援を受けてこれを排除したと考えられている[1]。「薩州家」の名前は用久が薩摩守を称したことに由来する。2代当主国久の死後に起こった御家騒動は、他の分家をも巻き込んだ騒乱となった。一時は半独立状態にあった。5代当主実久は島津宗家当主の座を巡る争いで、一時的に宗家当主・薩摩守護に就いたと考えられている[2]が、最終的には同じく分家の相州家に敗北した。以後は島津宗家を継いだ相州家系に従う。7代当主忠辰はこうした経緯からか豊臣秀吉の九州平定に対しては、宗家よりも先に降伏した[2]。朝鮮出兵に際し秀吉の怒りを買い改易され、忠辰が朝鮮在陣中に病死したため、薩州家はその所領を失った。
歴代当主
系図
- 太字は当主。[ ]は、その氏の祖を意味する。